狛江市の東南隅の宿河原は、堤内(ていない)わずかに東西400メートル・南北100メートルばかり、堤外は、多摩川の河川敷である。宿河原という地域の大部分は、川の南にあって神奈川県川崎市に属している。多摩川が昔「あっちへ流れこっちへ流れした」結果に違いない。上布田・下布田・和泉・宿河原・宇奈根などの地名は、いずれも両岸にある。ただし宿河原以外は、北側が主要部になっている。
 明治22年に狛江村が成立した時、宿河原は入っていなかった。神奈川県橘樹(たちばな)郡稲田村宿河原の飛び地であったから、松坂仙蔵さんの古い道具にはみんな「神奈川県橘樹郡」と書いてある。戸数7軒、畑を川向こうに持ち、作渡し場で通った。対岸の神社の氏子であったから「お祭りや何かには、お付き合いでもって、こっちで当番のときは、こっちで強飯(こわめし)をふかしてみんなお宮に持っていったもの」。菩提寺も登戸の長念寺が5軒、宿河原の常照寺が1軒で、和泉の玉泉寺は1軒だけである。明治45年、多摩川を府県境とするにあたり、7軒は東京府に編入されて狛江村に属し、同時に駒井の日枝(ひえ)神社の氏子となった。しかし、「はなは、継子(ままこ)扱いにされちゃって」大変だったという。「宿河原へ出て働けば、このくらい酒が飲めるんだ」と見せつけようと、畑の帰りに酒屋へ寄って焼酎を飲み、酔っぱらって大声を出して帰ってきた人もいた。時世が移りそんな昔の悩みは今跡形もない。
 しかし、狛江町の時代に、宿河原を駒井に入れようという話が出たときには、「別に宿河原だっていいじゃないか。昔から宿河原だ」という意見も出てまとまらなかった。近頃の住居表示変更の委員会で、駒井と猪方の切り方を話題にした。「狛江市宿河原はどうして(話題に)出てこないのか」と、松坂さんは質問した。「面積が少ない」との説明に、「面積が小さくても多くても大字(おおあざ)には変わりはないじゃないか」とやり返した。住居表示から宿河原の名が消えたが、名誉は守った。