まだ護岸工事をしていない戦前の野川は雑木林の間を流れていた。しかし、水がきれいで深みのある御台橋の辺りは子どもたちの絶好の遊び場となり、夏になると大勢の子どもたちが集まってきては橋の上から跳び込んだり、泳いだりして喚声を上げていた。
 魚も豊富だった。夕方になると釣り人が来て釣り糸を垂らしたり、ドウを沈めて入ってくる魚を待った。そこには黄色いシジミさえいた。
 しかし豊かな水も溢れることが多く、三島の田んほは湿田だったし、神代団地の辺りでは田植えをする時、丸太を2本並べて浮かべ、その上に乗って苗を刺しながら後ずさりしていくほどだった。また、北久保の畑が水につかると、せっかく実ったジャガイモやサツマイモが腐るので、すばやくたらいを浮かべ、その中に収穫物を入れて引いたという。
 御台橋のすぐ下には堰(せき)があった。ここから分かれた水は千手院の裏を流れて三島田んぼの潅概用水になっていた。また御台橋の上流は大橋まで、下流は丸山橋まで橋らしい橋はなかった。
 御台橋の辺りの道は夜になると真暗らでこわいところだった。店屋はカサヤとアメヤしかなく、あとは点在する農家だけだった。そのうえ今の御台橋商店街を通り橋を渡るとすぐ左に曲がる狭い道が古い道で、自動車などめったに通ることなく、御台橋は手すりの低い小さな橋であった。
 昭和30年代に入ると野川流域はたびたび水害に見舞われるようになり、川底のしゅんせつや護岸工事が行われるようになった。
 一方、道路のほうも、新しい都道が北の方からだんだん伸びてきて、昭和36年に新しい橋が完成。昭和38年に和泉まで開通したとき吉祥寺からのバスがやってきた。まもなく銭湯ができ、ストアーができ、やがて今の商店街が形成されてにぎわいを一層増していった。そして都道が松原までできた41年、バスは仙川・調布間に変更になった。