古い家にはたいてい屋号(やごう)があって、日常的には屋号で呼ばれることが多い。酒屋、油屋、こんにゃく屋、豆腐屋、たばこ屋、綿屋などは、ある時代、それぞれの商品を作ったり売ったりしたことに由来したものであろう。村の人たちはこうした商品は手近で手に入れることができたのである。しかしこれは維新頃までのことと思われる。
 ちょっとした買物はあちこちの市(いち)に出かけることになる。毎月二十三日夜から二十四日の泉龍寺の市。喜多見の慶元寺の二十四日の市。暮れの十五日の世田谷のボロ市。毎月二十五日の布多天神の市。深大寺や柿生の麻生不動のだるま市などは近隣の人たちを集めた。こうした市で衣類、農具、籠やざる、鍋釜など雑多な生活用品が新調・補給された。布田天神の「お神酒(みき)の口」や荒神様にあげる「とりの絵馬」などは市ならではの買物であった。
 晴れ着となると調布の五香屋、登戸の池田屋、肥料は調布のとらや、仙川の藤橋などで買い入れた。刃物や鋸は矢ケ崎の二見屋、大釜などの大型の金物は溝の口の飯島に行った。
 明治後半には各大字にたいてい一、二軒の雑貨屋が店を開いていた。覚東のあめや、創業は維新前の和泉の江戸屋、小足立のかさやなどがその例である。日常のほとんどの生活用品が一つの店でまにあった。
 夏前と冬場の二回、富山の薬売りがまわってきた。預けている渋紙の薬袋に薬を補充して、使った分の代金を受け取っていく。ときどき顔を出す「毒消し」という女の行商から薬を買うこともあった。
 調布辺りの旅人宿を足場にして金物を売り歩く越前の金物屋もおなじみであった。鎌、鉈、鋏、剃刀などあらゆる金物を持ってきた。
 秋になると東京湾でイワシがたくさん捕れることがある。羽田のかつぎ屋が「イワシッコ」と大声を上げて売り歩く。海の魚をめったに口にすることのない村の人たちの夕食をにぎわしたのである。