弁財天池の澄んだ湧き水は、和泉・猪方・岩戸の境界点から、深い堀割を流れて猪方の天神下に向かう。今のニ中通りである。家ごとに庭先から降りていく洗い場(川戸)があった。小川盛光さんの家でも、井戸があるのにあまり使わず、生活用水のほとんどが洗い場でこと足りた。この堀割の入口に、昭和初年まで大山街道の本道に当たる小さな橋があった。ここの洗い場では、登戸辺りからの肥引きの人たちも「いい水だア」と喜んで飲み、涼んでいったものである。
 洗い場は、この清水(しみず)川にかぎらず、六郷用水にも、覚東の大川(旧野川)から分水したジザイ堀にも、千町耕地沿いの根川にも、なにげなく設けてあった。いたずらっ子が流れにくい物を放り込むと、大人は「下(しも)の方の人みんな使ってるんだ」と叱る。四季の野菜物を洗い、年の瀬には餅米をといだ。が、また肥桶も洗い、冬は水が暖かいから、おしめも持っていく。夏、麦の棒打ちで一汗流し、そこへ行けばすうっとして汗がひいた。子どもが泳いで遊び、人が来ないところなら、女性が尻をくりっとまくって用を足したとか。
 もちろん狛江の用水堀の主要目的は、水田の潅概である。だから、堀さらいというだいじな仕事があった。駒井の場合毎年6月、一軒一人出て朝から一日がかりである。下からだんだんに上って、泉龍寺の池までさらってくる。両岸の草を刈り、底の水草を切り泥をさらい、池は掻きまわして苔を除く。すると流れが良くなりどんどん湧いてきた。寺でお茶を飲み、ビワをもいだりした。堀さらいは、用水ごとに日が決まっていて雨でも決行した。相(あい)の田の用水は5月1日で、上流から始めた。落ち葉が多くて、あげるのが大変で、水が少ないときは顔までまっ黒になった。岩戸では六郷用水の樋口(ひぐち)からと川下からと両方で始め、ぶつかったところでおしまいにした。
 同じ清水川の用水を分け合う駒井と猪方の間では、水が不足すると深刻な問題になりかねない。天神下の堰(せき)の開閉を時間制とし、堀さらいの分担も厳しい。分担というより権限であった。川下ゆえ不利になりがちな駒井に用水元の権利が確定したのは、江戸時代、駒井が天領であった頃で、水源地の領主石谷氏の裁(さば)きによると言い伝えられている。
 駒井の水田は主にこの清水を頼みとしたから、一反につき七合あて集めて計玄米二俵とし、「水年貢(みずねんご)」と称して暮に泉龍寺に納めた。猪方の用水利用者にもこれがあった。「弁天御供米(べんてんごくうまい)」ともいい、両年大旱魃(かんばつ)だった明和8年(1771) に喜多見村文治が発起人で玄米一斗を納めた記録が最も古く、最後は昭和42年、駒井からの二斗であった。谷田部稲荷の湧水は、古く清水川と合流していたらしいが、これに平行する別の小さな水路として整え、岩戸・喜多見・宇奈根の用水に加えられていた。そこで谷田部稲荷にも、稲荷講の時に湧水利用者からわずかながら水年貢が届けられていた。根川の下流三給堀でも、水源の久保さんにちょっとの水年貢を出したという。