□自転車が走る
少女時代の三浦環が、芝の自宅から上野の音楽学校へ自転車通学して話題を集めたのは明治三十三年のこと。輸入自転車デートンの車体の色(えび茶)の袴が、女子学生の間に大流行したのもこの頃である。
明治三十年代は自転車熱の勃興期で、同好会のようなものが各地にでき、自転車レースも盛んであった。デートン、クリーブランドなどの輸入自転車を扱う会社がレースを後援し、賞品を出した。ブランド車が快走、レースは白熱、興奮したファンは上着を投げたり、羽織を放ったりする。入賞した選手たちは拾い集めて観客の手に戻す。引き換えに祝儀が渡される。優勝車のブランドの人気は、かくして急上昇するのである。
日露戦争の頃、狛江で自転車のある家は、のちの村長の石井扇吉さん、覚東の高木さん、岩戸の久野さんの三軒だけだったと言う。
大正の中頃になると三十台ぐらいになる。一の橋の須田サイクルの先代が、農業のかたわら自転車屋を始めたのが大正八年というから、この頃からぼつぼつ普及し始めたのであろう。昭和五年には五百十八台と飛躍的に増えている。当時の戸数(五百八十四)を少し下まわる数である。
覚東の高木雄一さんは語る。「父は胃腸が悪くて大病をし、ぶらぶらしているうちに、機械好きの祖父が購入した自転車に乗ることを覚え、玉翠園の脇のグランドで毎日のように走らせていました。米国製のクリーブランドで、畑を三反売らないと買えない代物(しろもの)でした。あちこちのレースに出ているうちにいつのまにか一流選手になってしまい、会社お仕着せのつなぎのユニホームで全国をまわりました。」ちなみにクリーブランドはその頃百五十円前後で売られていたようだ。
高木さんの叔母のゲンさんも、兄貴に習って自転車に熱を入れる。当時としては、まだ珍しい洋装。颯爽とペダルをこぐゲンさんは、狛江の女性サイクリスト第一号であった。