榛名(はるな)講は、群馬県の榛名山にある榛名神社に参拝する講である。この神様も農家の神様で、特に雹(ひょう)よけ・嵐(あらし)よけの神として信仰を集めてきた。榛名講は、おおむね旧村単位につくられ、大正の初め頃までは、農家のほとんどが講に入っていた。
 今も続いている猪方では、講員は三十一名。四月中に、六名(最終年は七名)で代参に行く。戦後しばらくまでは二名であった。講金は、今ではお金を集めるが、かつては小麦二升ずつを集めて銀行町の谷田部穀屋に売り、代参の費用に充てた。榛名山の御師(おす)の宿坊か伊香保温泉に一泊し、代参から帰ってくると、各自が持ち分を決めてお札を配る。そのとき、くじを引いてもらって来年の代参人を決めている。村用の大礼「風雨順時 五穀豊饒 榛名神社 御祈祷御札」は、庚申様の辻のところに立てる。お札のほかに、榛名神社で一月十五日に行う筒粥(つつがゆ)神事で占った、今年の農作物の作柄の良し悪しの刷り物ももらってくる。
 昭和三十年頃まで講のあった岩戸では、三、四名の代参人が帰ってくると、翌日、その中の一人の家を宿にしてお日待ちをした。代参当番が米を二合ずつ集めて、夕食にご飯を炊き、煮しめ、ケンチン汁などをつくる。お日待ちの席でお札を分けたり、筒粥の作占(さくうら)を披露したりした。
 和泉では、毎年三月一日に泉龍寺で開かれていた戸主会のときに、各地域ごとに代参一名をくじで決め、十名の代表を決めたが、実際に行けるのは八名くらい。五名のことも多かった。代参から帰ると、代参者はそれぞれの地域にお札を配る。本橋兼吉さん(明治二十四年生)は、父親の代わりに二十歳の頃、代参をした。その当時の代参人のいでたちは、木綿の袷(あわせ)の長着を尻っぱしょりし、羽織を着て、下は紺の股引(ももひき)、紺足袋(たび)に草鞋(わらじ)履きであった。朝早立ちをして汽車で高崎まで行き、歩いて、夕方、榛名に着く。御師の家に泊まり、翌日参拝をすませ、榛名から妙義山まで歩き、菱屋旅館に一泊した。桜が満開だったという。