多摩川砂利の採掘が禁止されると、流域の田んぼに目が向けられた。
 もともと多摩川によってできた土地だから掘れば無尽蔵の砂利が出てくるはずである。そこで採掘業者は田んぼを買って掘り始めたが、掘れば掘るほど周囲の田の水が砂利穴に向かって流れ出し、水枯れ現象を起こしてしまった。いくら水を補っても溜る気配がない。
 それもそのはず、砂利層に大きな穴があけられたから、ふるいと同じで周囲の水を皆流し込んでしまうのである。梨畑も同じで、せっかくの梨の実も地下水がないから育たない。仕方がないから周囲の土地も売りに出されて砂利穴はますます広がるし、それを見越した砂利屋は境界ぎりぎりまで掘り進めて砂利穴を広げていき、猪駒通りの両側には大きな砂利穴がたくさんできてしまった。そこには水が涌き、満々とたたえた水の中には、コイ、フナ、ハヤなど多摩川の魚がすみつき、人々の格好な釣り場になった。1メートルもあるコイを釣り上げた話さえある。
 豊かな水は田植えの水にも利用された。穴のほとりに番小屋を建て、そこに揚水機を設置して汲み上げる。汲み上げた水はトタンの樋(とい)で田から田へ送り続けた。そのために番小屋の中で一晩寝ずの番をした。
 時には不法なゴミの投棄も行われていた。投棄されたゴミはものによっては浮いたままで池の周囲にうち寄せられ、うっかり乗ろうものなら底なしの池に落ちることもあったという。しかし、水に浮いた古畳は格好の遊び道具となり、その上に乗って遊ぶ少年もいた。
 昭和30年代後半になり地価が上がってくると、砂利穴に多量の塵芥や残土などが運び込まれて埋め立てられ、いつのまにか宅地として売り出されるようになった。そのため地下水が濁り、飲料水に困った和泉多摩川付近の人たちが狛江浄水場から水を引いてもらったという話がある。