□戦後の子どもたち
昭和二十年、終戦の頃の狛江には、まだまだたくさんの自然が残っていた。子どもたちは毎日成城の山や、野川へ行き、雑木林の中でターザンごっこやかくれんぼなどして楽しい一日を過ごしていた。そして桑の実があればそれを口に入れ、口のまわりを真っ赤にするのも楽しみの一つだった。
また、食糧難の頃だったので、ドングリの実を集めると食パンに替えてくれるという話をどこからか聞いてきて、夢中で拾い集めたのはいいけれど、交換するところがわからず、いつのまにか忘れてしまったとか。また、小田急線を走る進駐軍専用車からアメリカ兵が投げてくれたチョコレートを夢中で拾い集めて食べたなど、今では考えられないことばかりだった。
進駐軍といえば、日本占領政策の一つとして、日本政府に映写機を貸与し、映画会を勧めていた。勿論アメリカ映画だったが、小学校の校庭に大きなスクリーンが張られ、村中の子どもたちが集まって鑑賞した。途中でフィルムが切れると大きなざわめきが起こる。満員の客を横目に、スクリーンの裏側から裏返しに映る映画を見て楽しんでいる子どもたちもいた。
衣料も石鹸も乏しい不潔な生活は子どもたちのからだ中にしらみを発生させ、しらみ退治にDDTもよく使われた。校庭に全員整列し、頭から背中の中までDDTを吹き付けられ、真っ白な髪を櫛ですくとしらみがボロボロと落ちたという、いかにも戦後ならではの光景だった。
娯楽の少ない村にまわってくる紙芝居も子どもたちの楽しみの一つだった。拍子木の音を聞き、集まってきてはじっと画面に見入る子どもたちにとって、黄金バットは夢だった。そしてたくさんの駄菓子を買った者は前の方で、買わない者は後ろの方で控えめに見ていたが、それでも買わないからといって見せないことはなかった。
登録日: 2003年6月2日 /
更新日: 2003年12月4日