□買い出し
田畑は荒れ、乏しい労働力の中で終戦を迎え、戦後の食糧事情は最悪であった。配給だけではとうてい間に合わないから闇米を買う。イモを買う。野菜がほしい。農家の多い狛江だったけど農家は農家で供出割当てがあって、そう簡単には売ることもできない。だから非農家の人たちは遠くまで買い出しに行った。ある者は厚木から松田の方へ、またある者は水戸の方まで行ったという。お土産になけなしの着物を持って、そのうえ、多額のお金を払って買ってくるが、途中での検問に会えば統制令違反ということですべてを取り上げられてしまう。だから、子どもを引き連れてわずかずつ運ぶ。検問の警察官も子どもには甘かったし、「お母さんが病気だから持っていって食べさせろと、おばあちゃんに言われ
た」と子どもに言わせた母親もいた。
狛江銀座には雑炊食堂があって雑炊を配給していた。雑炊というのはわずかな米と野菜を水で薄めて、うすい塩味で煮込んだおかゆのようなもので、戦中戦後の代表的な食べ物であったが、それさえ買うのに行列を作った。少しでもたくさん欲しいという心の現れから皆大きな鍋を持っていく。だから一人当たり茶わん一杯に制限され、やがて売る方でも名前を書け、家族数を書けということになってしまった。大きな鍋に茶わん一杯の雑炊を入れて帰るときの侘(わび)しさはいかがなものだろう。
弁当の盗難も多かった。通勤途上小田急線の網棚に置いた風呂敷包みの中から、弁当だけが盗まれたという話があるほど弁当は貴重品だった。
食糧増産は戦時中からのかけ声で、どこの家でも空き地さえあれば野菜を作った。肥料は勿論わが家の人糞である。道路の縁にさえ作っていたくらいだから、狛江駅のホーム下の空き地(マルシェのあったところ)は格好の菜園で、近くの人の作ったカボチャやサツマイモなどがみずみずしさを誇っていた。