戦時中のことである。和泉原と言われた、現在市民総合体育館がある辺りの畑の中に、板塀で囲まれた六百坪ほどの一角があった。昭和十八年四月より照空燈を操作する小部隊が駐屯していた。照空燈というのは、夜間飛来する敵機を地上から照らし出す兵器である。ライトが捕捉した機影を目標にして高射砲が射撃するのである。
 狛江陣地は陸軍の高射砲第一一二聯隊第三大隊第一四中隊第六分隊であった。この聯隊は中央線(新宿から立川)以南、京浜地帯より北の地区に多摩川をはさんで配備されていた。高射砲六十七門、照空燈十八を装備する精鋭であった。第一四中隊は六個分隊の編制、連雀、牟礼、仙川、深大寺、布田、狛江に展開していた。各分隊には照空燈、聴音機、離隔操縦機、発電用自動車各一と二十から三十人の兵員が配置されていた。
 兵隊さんは昼夜を分かたず対空監視をし、夜間は銃剣を付けての移動哨戒、通信班は二名一組で通信所に勤務していた。午前中は演習、午後は掩体(えんたい)作り、兵器手入れ、自活のための畑仕事もした。
 「塀の中」の兵隊さんは外出のときなど、近所の農家にこっそりと立ち寄ってほっとすることがあったらしい。一般には乏しくなった甘いものやタバコ、石鹸などが手土産であった。敵機ならぬ狛江乙女の心をとらえ、敗戦後結ばれたカップルもあったという。
 八月十五日、兵舎のラジオが敗戦を告げる玉音を伝えた。早々に復員する朝鮮出身兵を送った数日後、狛江分隊に厚木進出の命令が下る。進駐の米軍を迎える厚木飛行場では、整備のために昼夜兼行の作業が始まっていた。分隊は夜間作業を助ける照明を担当したのである。夜空にB29を追ったあの激しい光芒も、今は地上照射のカンテラに変わった。
 二十八日、米軍機の第一陣が到着。手製のMilitary Policeの腕章を付けて、「昨日(きのう)の敵」とぎごちない交歓が行われた。狛江分隊が祖国への最後のむなしい使命を終えて厚木を後にしたのは九月二日であった。