昭和二年八月、突然だれか泉龍寺の釣鐘(つりがね)をゴーンゴーンと撞(つ)いたので、ちょうど村役場にいた冨永さんは、なんだろうかと見にいった。和泉の雨乞いで「池のまわりがいっぱい」。元気のいい人が樽かなにかに腰かけてだいぶ力んでいた。えらい日照りには、この清水(しみず)にまで繰り出すのが、古来和泉の仕来りだが、この年のは事情の違うところがあった。
 前年の大正十五年、泉龍寺から弁財天池周囲の田畑山林一円の地を借りて、小田急関連の高級料亭「松の葉」ができた。キュウリ風呂があったという。竹で編んだ建仁寺垣(けんねんじがき)で池を囲ってしまったから、農家が野菜物を洗ったり付近の女たちが洗濯に行く元からの洗い場に行けなくなった。小田急開通前後は、住職が亡くなり寺は世話人がきりもりしていたので、村内の檀家の中からすぐに現世話人の改選要求も出た。
 この日「どうしても降ってもらわなきゃしょうがないから、泉龍寺の池へ行こう。あんな生垣倒してしまえば入れるってんで」雨乞いの大太鼓で押し倒し、池に入って「懺悔(ざんげ) サンゲ 六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と御幣(ごへい)に水をかけ気勢をあげたのである。暴力団だとして訴えられ十数名が府中警察に引っ張られた。炊き出しまでする騒ぎとなったが、すぐ帰してもらえた。中には扇動的な人もいたが、和泉全域から参加し、洗い場の利用者だけではなかった。開通したての小田急狛江の駅舎に「暴れ込んで売上をかっぱらった」二、三人の若い衆だけは、八王子の裁判所までまわされた。石井干城さんが身元引受人になってもらい下げに行ったという。
 昭和二年九月二十六日付で、村会議員にあてた狛江村戸主会有志なるものの村長辞職勧告の激しい一文がある。「小田急付属の一茶屋」の「企て」に呼応し、独断的に村道を遮断して不便を与え、水利を妨げ、そのうえ村民を「密告」したと、村長を攻撃している。村長以下村政の首脳が、泉龍寺の世話人の中の有力者だったのは事実である。
 「しみず」の池を囲む垣根が再び作られることはなかった。