□昭和二十年八月十五日
終戦の日が近づくとラジオの音楽も静かになり、米軍機の来襲もめっきり少なくなった。
八月十五日は朝から重大放送があるということが伝わっていた。空は青々と晴れ渡り、夏の太陽がぎらぎらと輝く暑い日だった。役場の人たちは重々しい気分で皆各自の机の前に起立して正午の放送を待った。
十二時ちょうど、ガアガアという雑音の中から陛下の詔勅が流れ出した。一つひとつの言葉を聞き取ることは難しかったが、それでも戦争が終わったということだけはわかった。
それからがたいへんだった。どこの軍事施設でも、やがて来るであろうアメリカ軍の占領に備えて秘密文書を焼き払い、蓄えられていた多量の軍需物資が復員兵によって持ち出されたり、アメリカ軍の目を避けるため各所に分散した。狛江でも泉龍寺や村役場など数箇所に砂糖や毛布が持ち込まれた。しかしそれらの物資も再移動が行われたり、保管中にもちびりちびりと少なくなっていった。あるとき、なくなったら困るからということで砂糖の表面に指先で「水」という字を書いておいたが、その効きめもなくなってしまったという話が残っている。
終戦後のある日村役場にMPがやって来た。戦時中に撃墜されたB29の乗員がパラシュートで国領や生田に降りたとき、竹槍を持っていき突き殺した人がいるといううわさがあったので捜査に来たのである。当時村役場の庶務課長をしていた土屋庸親さんは、からだの大きなMPを相手に「この村にはそんな悪いことをする人はいない」とやり返していた。
公職追放令という命令が下った。戦争中指導者であった人たちに今後首長・議員などになることを禁ずるという命令である。当時の村長はじめ数人が該当し公職を去った。その後もGHQの命令は次々に発せられ、なによりも大きな力をもっていておそれられた。
登録日: 2003年6月2日 /
更新日: 2003年12月4日