□農家の生活
どこの農家も、強い北風を防ぐために、シラカシやケヤキなどの防風林で囲まれていて、屋根は茅葺(かやぶき)、多くは田の字型の間取りになっていた。そして玄関とそれに続く台所は広い土間になっていて、雨の日や夜の仕事場でもあった。
屋根裏には必ずといっていいくらいヘビがすんでいた。しかも天井板など張られていなかったから、ときにはヘビが梁から座敷の真ん中にぶら下がっていたり、あるいはドサッと大きな音を立てて落ちてくることもあった。いかにヘビとの共同生活であっても、やはり気持ちのいいものではなかった。
だからヘビを見ると、「ヘビがいるわよ」と互いにささやき合ったが、ヘビを指差すことは決してなかった。ヘビを指差すと指先が腐ると言い伝えちれ、恐れられていたし、また、ヘビは神様だとも言われていたので、決して殺すこともしなかった。
夜の便所も怖いものの一つだった。おおかたの便所は外にあるので、虫の声を聞き、星空を見上げながら行くのだが、雪の降る寒い夜は特につらい。しかも、小便所は地面を掘って瓶(かめ)を埋めただけだったし、大便所でさえ上にも下にも透き間があって、ほんの目隠し程度の戸があるだけである。
つらいのは水運びである。井戸も外にあるので、たとえ雨が降ろうと桶を片手に汲みに行く。さいわい水位が浅く九尺も掘れば水が湧くのでハネツルベを使えるが、汲んだ水は台所に運び瓶に入れておき、柄杓(ひしゃく)で汲み出しては洗い物をする。そして使った水も外の瓶にためておいて適当なときに畑の隅に撒(ま)く。また、風呂の水汲みはたいへんな仕事であったけどたいていの場合は子どもの仕事であった。
平地ばかりの狛江には雑木林は少なく、屋敷林といっても薪にするほど多くの木はない。だから炊事も風呂も麦わらや稲わらのほか農作業から出るごみも、川岸にうち寄せられたソダなども拾い集めて燃料にした。昔多摩川で筏流しが行われていた時代には、大水で流れ下る材木を、親子命懸けで命綱を付けてまで多摩川にとび込んでは引き上げて薪にしたという。燃料の乏しい時代の工夫でもある。
激しい北風を防ぐためには、家の北側の木と木を結んで三段か四段に竹棹を渡し、それに束ねた稲わらをいっぱいぶら下げた。今と比べて田畑が多く、障害物が少なかったので砂塵が舞い、一冬過ぎた稲わらには目いっぱいほこりが詰まり、すっかり重くなったという。
食事は自給自足で、米と麦を混ぜ合わせたものと、みそ汁・漬け物などが主であった。何といっても米は現金収入を得るために節約した。
肉や魚はめったに食べることがなかった。月に何回かまわってくる行商から買うか、家で飼っている卵を生まなくなったニワトリの首をひねって食べるか、多摩川や野川で獲った魚や貝がせいぜいのごちそうだった。
子どもたちの弁当もさまざまで、家が近い者は食べに帰った。また、サツマイモを新聞紙でくるんで登校する者もいたし、焼いた餅を持って学校に行く者もいた。餅は農家の保存食でもあった。
田植えは部落(旧村)あげての行事で、共同作業の場であった。だから農村では共同生活が重んじられ、冠婚葬祭はもとより、日常生活の中でも、また、休日さえも同じにした。
日頃の厳しい生活のためか農家の休みは、一月は正月三が日と七草・十一日・十五日・十六日、三月三日のお節句・十五日の梅若様、五月のお節句、八月のお盆、秋のお祭りくらいしかなかった。その代わり休みの日には皆で休み、互いに楽しみ合うことを忘れなかった。
収穫した野菜は川で洗った。そのためどこの水路にも洗い場があり、なんでもそこで洗った。そして土間に座って夜遅くまで束ね、翌朝の出荷に備えた。
出荷も初めは大八車を使ったが、やがてリヤカーや牛が使われるようになり、また戦後はオート三輸から四輪車に変わった。市場もあまり遠くまで行かなくてもすむようになった。