住居表示のあゆみ
都市化の進展に伴い、住所が複雑な地番のため分かりにくく、郵便物等の遅配や誤配が多くなってきた。
従来の住所は、土地の地番を住所としていたが、土地の地番の場合は合筆や分筆によって地番の欠如、飛番、枝番が多く、これが住所を一層分かりにくくしていた。
これを解消するため、昭和48年に住居表示について検討することになった。この検討に際し、土地の地番と町名も併せて変更する方法そと、住居の表示だけを変更する方法があったが、狛江市は、混乱を避け、実現可能な方法として、住居表示に関する法律と実施基準をもとに、実施地域ごとに住居表示審議会を設置し検討した。
初年度は実施基準に照らして一番容易と思われる岩戸地域から実施することにした。
住居表示の基準は、①町の境界が幹線道路等で、視認が明確であること、②一つの町の規模が4〜5丁目程度あること、③歴史的に由緒ある町名を尊重すること、などである。この実施に当たり、審議会で素案を作成し、地域住民からの「意見を聞く会」を設けることとした。素案は、世田谷通りで区分し、町名は「南岩戸」「北岩戸」の冠町名案である。
意見を聞く会は地域内の6か所で開いた。二分割案には問題はなかったが、長く親しんだ「岩戸」を冠町名にすることに対して、冠町名にした場合、冠を脱落した場合には郵便物の配達に支障を来たすとの理由から、反対の声が上がり、町名は最終的には、「岩戸北」「岩戸南」に決定した。
これで岩戸地域は一応の目途がついたのだが、岩戸と駒井の境界が明確ではないということで、変更請求が提出され、公聴会を開いた。原案の賛成者と反対者の意見を聞き、結果的には、原案どおり決定し、50年1月1日に施行、輝かしき住居表示元年を迎えた。
第2期として、旧小足立、旧覚東地域を実施した。旧小足立、旧覚東地域は、相互に町が入り組んでいて地番に連線性がなく、民間デベロッパーによる大規模な開発も行われたために、地番の欠如が多く見受けられた。
審議会の、都道114号線を境に町名を新しくしようとする素案を岩戸同様、市民の意見を聞く会に諮ったところ、今まで築いてきた住民の連帯感を分断するものだと反対の声があったが、小足立町会、覚東町会と何回も話し合いの結果、町の境界は素案どおり決定した。
町名を決めるに際しては、住居表示実施地域内の町会、自治会の代表者によって、「町名策定委員会」を組織し、この委員会で四つの町名案をつくり、地域住民を対象にアンケート調査を行い、決めることとした。
四つの町名案は、「小覚町」「緑町」「野川」「富士見町」であった。アンケート調査の対象4,500のうち、回収数約2,100、回収率47パーセントのうち約75パーセントが「野川」を選んだ。この結果、都道を境に、西側を「西野川」、東側を「東野川」で決定をした。
第3期は、和泉地域で、和泉の場合、狛江市の約2分の1を占めているため、五つに分割した上で、旧の和泉の字名を尊重し、現在の「和泉本町」、「元和泉」、「東和泉」、「西和泉」、「中和泉」で問題なく決定した。この中で、和泉本町は市役所の所在地で、元和泉は和泉の地名の発祥地といわれる弁財天池のあるところである。
第4期は、猪方、駒井、宿河原地域で、字としては小さい宿河原の扱いと、猪方と駒井の町名尊重が課題であった。
審議会の答申では、宿河原は駒井に含めることと、町名は駒井、猪方とする、を二つの柱として丁目割をすることとし、町名は住民アンケートにより、「駒井町」、「猪方」と決定した。狛江市内の字名で、新しい町名にそのまま採用されたの唯一「猪方」だけで、かなり話題となった。
住居表示業務は、50年、第1期の岩戸地域の実施から4期7年で完結した。
住居表示の実施は、町名の変更を伴うので、全国的に物議をかもしていた。狛江市の場合、4次にわたる審議会を設置し、新しい町域の設定や町名の変更について審議を尽くし、最終的な決定は、住民アンケートの結果を尊重して行ったので、市民の意向を反映したものとなり、定着している。
なお、各町の番号は、市役所に近いところから時計の針回りの方向で付けられている。