消防団の歩み
狛江市消防団のルーツは、明治28年12月に創設された狛江村消防組にある。全村を5組に分け、和泉を第1組、猪方を第2組、駒井を第3組、岩戸を第4組、小足立・覚東を第5組とし、各組に1人計5人の組頭を置き、小頭25人、消防手181人の総勢211人の陣容であった。当時の村の人口が約2,350人というからその数は大変なものである。村役場に事務所を置いたが、これが公設消防組の始まりである。
44年11月に、全村5組編成を6部編成にし、組頭のもと、部長6人、小頭23人、消防手176人の総勢206人の陣容で再出発した。
当時の消防器具は、雲竜水、竜吐水、玄蕃桶などであった。金属製の腕用ポンプが装備されるようになったのは、大正5年頃からのことである。
昭和2年、小田急線の開通により、人口の増加をみるに至った。このとき、近郊ではまだ珍しい自動車ポンプが配備された。
5年12月、第6部の覚東が独立し、7部編成となった。現在の消防団の受持ち区域は、この時の編成が基になっている。
この頃は、いざ、火事が発生すると火の見やぐらに登って半鐘信号を用いて組員を招集、火災現場の位置確認ばかりでなく、付近の村人にも危急を知らせるなど、火の見やぐらは消防にとってはなくてはならないものであった。この火の見やぐらには木製の梯子が使われていたが、7年、第5部に高さ約24メートルの鉄骨望樓を築造したのに続き、10年に第1部と第2部に、11年には第3部と第6部にも望樓をそれぞれ築造したが、18年には、国防資材として献納を余儀なくされ、築造後10年を経ずして、惜しくもその雄姿を消してしまった。
14年、警防団令が施行され、狛江村消防組も狛江村警防団と改組し、その結成式を狛江小学校校庭で挙行した。
16年、太平洋戦争に突入。戦争は激化の一途をたどり、空襲も激しさを増し東京の市街は焦土と化したが、狛江でも中心地に焼夷弾の集中攻撃を受け、警防団員も郷土防衛のため身命を賭して活躍した。
終戦後、22年、警防団は廃止され、狛江村消防団となった。翌23年に消防組織法が施行され、団長以下197名の陣容で、新しい制度のもと消防団は再出発した。
27年11月、町制施行に伴い狛江町消防団と改名する。この頃から、腕用ポンプから徐々に手挽ガソリンポンプへと装備も変わり、30年1月、消防機器の機械化に伴い団員数を削減し、団長以下108名の少数精鋭の消防態勢をとることとなった。
消防態勢としては近隣との協力関係が必要なので、31年に成城消防署と、33年に調布市と消防相互応援協定を結び、市の態勢充実のため、37年に消防団本部を設置した。住民の安全を守るため消防力の整備、充実が進められ、49年の多摩川水害などでは現場の先頭に立って、水防活動に携わり、総理大臣表彰をはじめ数々の栄誉ある表彰を受けている。
最近でも、たまたま通りかかった団員が民家のてんぷら火災を発見し、初期消火で一大事をまぬがれるなど消防団にまつわる武勇伝は数え切れない。