自主学童保育所の発足
上和泉学童保育所の入所申し込みが定員を大幅にオーバーすると心配されたのは、昭和53年度のことである。
このときの申し込みは、定員50人に対し、40人もが超過するという状態で、入所基準を若干厳しくしても定員内には収まらなかった。1所増設するには8,000万円の資金が必要である。
2月の市長相談日に藤塚保育園のお母さんたち3人が学童入所の問題で訪れ、市長は前向きの検討を約束した。
2月15日、市の既存施設を使ってということで、早速、上和泉地域センターや学校施設の使用について調整を開始した。
このとき、学童保育所に対する都の補助金削減が決められた。
3月3日、一応期限が迫っており増設はできないので、定員だけの入所を決め、3月9日、最終的に入所できなかった35人に対しての説明会を行った。
課長の独断であるが、「母親たちでの自主運営だけしかないがどうだろうか。」と相談を持ちかけた。
3月11日、母親の自主保育ならこのことになり、第五小学校のプレハブ移築の検討と建設用地の問題を解決しなければならなかった。
3月14日、ようやく予算が固まった。現時点で自主学童への申し込みは約20 人なので、それを収容するためプレハブの建設を検討した。場所についても何とか目途が立ちその地主さんからの返事を待つばかりとなっていたが、その後、建物を建てるのでは困ると断られた。急遽、別の地主さんに依頼した。最初は良い返事をもらったが、翌日に断られた。
4月になって、とりあえず上和泉地域センターの一部屋を一時間借りして開所し、その間に土地探しをすることとなった。
数か所が候補になったが、野川地域センターの近くにある市有地が、狭いけれども50平方メートルほどの建物なら建つというので、早速建築の手配をした。26日にプレハブを建てることが決まったが、「近隣から反対の声が出ている。」という電話があり、早速現地に行ってみると、数人の地域の人が集まっていた。自主学童の責任者も来て説得に当たったが反対の意向は強かったので、作業は一旦とりやめた。
5月3日、野川地域センターで、自主側と地域の人との話し合いが持たれたが、地域の人は、静かな住宅環境の妨げになるというのだ。自主側としてはせっかくの用地を諦めなければならなかった。
その後も自主学童のお母さんたちの土地探しは熱心に続けられたが、どこもだめであった。上和泉地域センターの仮住まいでもいろいろと苦情が出ていた。土地がだめならと空き家探しもやった。
8月になって、調布の人が所有地を貸しても良いとの話があった。ただし、地元の人の了解を得てほしい、地元の地主さんたちを差し置いて貸すわけにはいかないとのことであった。お母さんたちは手分けをして地元の地主さんを訪ねた。
8月18日、調布の地主さんと翌年3月までとの約束を得たが、翌日の新聞に自主学童の土地探しの記事が出て、近隣の人たちから反対の声が上がった。
9月1日、議会に対し陳情書が出された。総論では賛成、各論では反対なのだ。さすがに気丈夫な自主学童代表のお母さんも涙ぐんでいた。
それでもお母さんたちはくじけずに土地探しを続けていった。9月末になって、その場しのぎにずるずると借りていた上和泉地域センターからも今月かぎりで、明け渡しをとの話が来た。陳情書の問題が解決するまでと強引に要望し、ようやくのことで1か月の延長が認められた。議会側でも土地の確保に協力され、議員斡旋による土地が和泉本町に確保された。すでに11月20日のことである。
500平方メートルの広い土地にお母さんたちは歓喜した。建物はプレハブ(100平方メートル)をリースで借りることになり、地域センターの明け渡しもプレハブの完成まで待ってもらえることになった。土地の整備費や建物の建設費の補正予算が議会で認められ、建物が完成したのは12月20日、引っ越しをしたのが22日であったが、子どもたちには素晴らしいプレゼントとなった。
こうしてやっとの思いで本格的な施設の中での自主学童保育所の運営が始まったが、この土地も1年間の契約で、その後もまた移転を余儀なくされ、58年に松原学童保育所が開設されるまで、自主学童はさまざまな曲折を経て運営されていた。