悪夢のような多摩川堤防決壊
昭和49年9月1日、「狛江市猪方地先の多摩川堤防が決壊」の一報がマスコミを通じて日本全国に伝えられた。翌日未明、全国の人々が見守る中、被災状況がテレビの画面に映し出された。長年の蓄積が実り、やっとの思いで建設したマイホームが、それも建設したばかりのものが、瞬時にして次から次へと濁流の中に消えていく様子であった。「おとなしい」「安全な」川として、近郊の人々に親しまれてきた多摩川が突如として、その隠された牙をむいた。
中心気圧960ミリバール、中心付近の最大風速40メートルの大型台風16号の接近に伴い、発達した雨雲が関東地方に停滞し、激しい降雨にみまわれたのは前日の8月31日のことであった。
小河内を中心とする多摩川上流に記録的な豪雨が断続的に襲い、多摩川は増水を続けた。市では、9月1日の「防災の日」に防災訓練を予定していたが、天候不順のため中止した。この予定されていた訓練が実戦になろうとはだれもが予想だにしなかった。
9月1日、多摩川の水位は、警戒水位を越え、天端まで達しており、多くの市民がこの様子を見に集まっていた。市では、河川敷内にある施設の撤去を行った。
午後2時、増水する多摩川を見守る大勢の市民、防災関係者を前にして、堰堤わきの小堤の先端が崩れ始めた。木流しや土のう積みなど市職員、消防署、消防団の人力による水防活動が懸命に行われた。しかし、洗掘の範囲はじわじわと本堤防に迫り、午後6時、市は災害対策本部を設置し、付近に避難命令を発令した。都にも対策本部が設置され、都をはじめ、自衛隊、警視庁、消防庁、建設省、日赤、東京電力、東京ガス、電電公社は素早く現地に駆けつけ、機敏な対応に努めてくれた。第二中学校と第六小学校に避難所が設置され、避難者の収容に力が注がれた。
この日、対策本部には、大勢のマスコミが押し寄せ混乱している中、困難を極めたのが、避難者、水防作業員の給食(3,000食)の調達であった。日曜日のため、市内の食堂、米屋などほとんどが休業。応急の乾パンを都に調達を依頼し、菓子パン製造メーカーに菓子パン調達の手配をした。そのほかにも、市職員宅にも炊き出しを依頼して、車で巡回して集めたおにぎりも含め、ようやく1,000食をかき集めることができたが、それでも、避難所の全員には行き渡らず、老人、病弱な人、子どもを優先に配給することとなった。
午後9時45分、必死の水防活動もむなしく、本堤防が長さ5メートルにわたり決壊。堤防を洗う濁流の勢いはとどまるところをしらなかった。家屋の危機を知り自宅へ貴重品を取りに戻ろうとする被災者と警備に当たる機動隊の間で衝突が起きることもあった。
この日、夜中にもかかわらず、市内在住の都の幹部職員が来庁され、都への手配を一手に引き受けてくださり、どれほど頼りになったかわからない。
2日未明、民家がついに倒壊、濁流にのみ込まれていった。2軒、3軒と流失家屋が増えるにつれ、現地には緊迫した空気がみなぎる。
人力による水防活動は困難を極め、静岡県などから大型のテトラポットを調達し、大型機で投入したが、激しい水流に押し流され効果がなく、洗掘が続いていた。そこで、災害対策本部の関係者が協議の結果、堰堤を破壊して水流の方向を変えることとなった。
流失家屋が増え避難住民がいらだつ中、堰堤爆破による被害を予想しつつ開会中の市議会全員協議会に状況報告のうえ、調整が進められ、午後2時37分、自衛隊により堰堤の爆爆破が行われた。堰堤の上に千葉県館山からへリコプターで運ばれた火薬をのせ、土のうで押さえての爆破であったが、濁流の流れを変えるほどの効果はなく、逆に付近民家の窓ガラスを破損するなど被害が大きかった。
3日、前日までの天気が嘘のように晴れ上がった朝を迎えた。しかし、洗掘はさらに進み、流失家屋はついに18棟を数えるに至った。何ごともなかったかのように晴れ上がった青空の下、必死の水防活動も空しく家屋が流失する様は無情を極めた。
建設省が主体になり、多量のテトラポットの投入が行われ、並行して再度、堰堤爆破の検討が進められた。午後4時から3度に渡る爆破が試みられたが、ほとんど効果がなかった。
4日、この災害を亀岡建設大臣が視察に訪れ、1週間で復旧するように指示された。この日も雨が降りしきる中、再度、午前10時30分から計6回にわたる堰堤爆破が行われた。今度は堰堤に穴を開け、火薬を詰め込んでの爆破である。午後8時、第6回目の爆破により堰堤に破壊口が開き、そこから水が流れ始めた。爆破成功。民家への水流は弱まり始めた。
5日、洗掘防御作業と小堤締切作業が急ピッチで行われた。
6日、小堤締切工事が完了。正午、避難命令(一部を除く)がようやく解除された。これで、一応の終止符を打ったことになった。
日曜日に呼び出された市職員は、この日まで連日連夜、水防活動に、避難所の設置、資材の調達、そしてマスコミの対応に奔走し、ほとんどの職員が仮眠だけでこの日まで精力的に働き、ようやく、この日に帰宅を許された。しかし、翌日には住民との補償交渉、堤防復旧工事が待っていた。
現在でも、住民と国との間で、この災害が人災か天災かをめぐり裁判で争れている。この災害の残した傷跡は深い。
※裁判は、平成4年12月に住民側勝訴で終了しました。