福祉と社会教育の殿堂、福祉会館竣工
市民待望の福祉会館が、多摩川を望む南下りの崖地に竣工したのは、昭和47年11月のことである。
会館からの景観は、素晴らしく、遠くは富士山、近くは多摩丘陵、そして多摩川の流れ、西河原公園の緑(開館当時はまだ西河原公園は存在しなかったが)が望める。
会館は、当初、公民館を設置するよう婦人団体から請願等もあり、31年にその資金として年額5万円以上を積み立てる基金が設けられてから17年目に、この積立金をもとに、工費3億7,000万円余で完成した。積立金の目的は、公民館建設として発足したものであったが、44年に具体的検討に入ったときには、社会福祉の施設も併設することが強く要請され、500人収容のホールや会議室、浴室付きの老人娯楽室、身体障がい者の機能訓練室など、初めての文化、福祉の複合施設を建設することが決まった。建設場所の選定と内容の検討に約2年を費やし、46年から2年間の継続事業で完成した。
敷地は、新宿区の好意で旧四谷区の林間学校跡地を譲り受け、その買収代金には、旧和泉地区有地と第四小学校敷地の交換により生じた余剰金、都市ガス敷設のために設立された組合のうち四組合からの解散時の寄付金、元村長故石井三四郎氏のご逝去時の遺族からの寄付金などが充てられた。
建設が具体的になり、建築工事の現場説明の前夜、取り壊し予定の木造の林間学校施設が、不審火で焼失するというハプニングもあったが、工事は47年11月に無事完了した。
建設にあたっては、利用団体との調整などに多くの時間を費やした。また、資金難のため設備や備品が不十分で、寄贈先を捜すのに苦労した。中でも緞帳(350万円相当)は三越百貨店から寄贈してもらった。開館が迫るなか、一応の品揃えをするのに準備担当職員は駆けずり回り、ようやく開館にこぎつけたが、日夜の奮闘は深い思い出となっている。
この福祉会館は、文化事業や老人の憩いの施設として多くの人々に親しまれ、その使命を果たしてきたが、新しい時代への対応として、保健センター・心身障がい者センター建設の市民要望に応えるため、哀愁を残しつつも、この建物は取り壊されようとしている。
(現在は、西河原公民館およびあいとぴあセンターに姿を替えている。)