野川が消える
古い多摩川が作った河岸段丘崖(ハケ)に沿って70以上も点在する泉の小さな流れが集まって一つの川を生み出し、これが野川となる。国分寺市恋窪から小金井、三鷹、調布を経て、狛江で六郷用水と合流し、世田谷区喜多見で入間川を合わせ、世田谷区の二子橋上流で多摩川にそそぎ込んでいた野川。普段は小さな流れでも、蛇行を繰り返しているため、大雨が降ると、よく氾濫した。このため、この川を土地の人は「大川」または「あばれ川」と呼んでいた。
この川は、つい30年ほど前までは、飲料水溜概用水として人々の生活に密着し、また所によってはわさび畑を育み、アユやウナギなどの漁の場でもあった。
ところが昭和30年頃からの、急速な宅地開発で、野川の周辺でも、田畑がつぶされ、雑木林が切り開かれて湧水や雨水の貯水能力がなくなり、野川への流水量が増えていった。
33年9月26日、台風22号の襲来で、野川は各所で氾濫し、市内の被害は浸水家屋1,250戸、田畑の冠水42ヘクタールにも及んだ。
この年の12月に、世田谷、国分寺、小金井、三鷹、調布、府中、狛江の1区4市2町で準用河川野改修促進期成同盟を組織し、野川の全面的な改修、特に狛江では新野川の建設促進という話が持ち上がった。
36年に、直線水路として全延長18,232メートルの都市計画決定がされ、調布都市計画決定部分の5,082メートルについては、翌37年に事業認可され、工事に着手した。
この頃には、流域の民家や集合住宅の排水が野川に集中するようになり、清流が失われつつあった。また、38年5月には、上流の工場からシアン液が野川に流入し、流域民家の井戸水を汚染し、町全体を震憾させる「野川・毒液流入事件」も起こった。
さらに、41年6月27日から28日にかけての台風4号でも氾濫し、床上772戸、床下918戸、田畑の冠水40ヘクタールの大被害をもたらした。
これらの苦い体験は、新野川の完成を早めることになり、42年6月、新野川は放水を始め、野川に起因する水害の心配はなくなった。
あばれ川との異名をとった旧野川は、49年から3年の歳月と1億700万円の工事費を費やして、延長約2.2キロメートル、平均幅員10メートルの緑地公園として生まれ変わった。
今では、四季を彩る緑の散歩道として、ジョギングコースとして、また子どもの遊び場として、市民に親しまれている。