今も足跡残る失対事業
失業対策事業は戦後の失業者を救済する目的で、最初、国の事業として始まり、狛江町でも、昭和29年に建設課を新設し、失業者を受け入れて失業対策事業を開始した。
当時、この失業者に支払う日当は240円程度だった。
町では、4半期ごとに事業計画を策定して、北多摩南部事務所経由で東京都建設局に提出し、これに基づき失業者が派遣されてきたが、失業者は、毎日、紹介手帳と弁当を持参し、三鷹市にある職業安定所の調布分室から自転車で集まってきた。
昭和30年頃の失業対策事業は、町道の砂利敷きや河川のしゅんせつ、草刈りなどで、当町の道路工事のほとんどが失業対策事業で行われていた。
当時の道路工事は、砂利道が多かったため、不陸直しや砂利敷きであったが、30年代後半には、砂利道を舗装する工事や耐水排水のためのU字溝を敷設する工事も行うようになった。舗装工事といっても、ツルハシで不陸を整え、砕石を敷き、乳剤を散布機でまき、その上に砂をまいてローラーを転がして圧縮するという簡易な舗装工事である。それでも多くの道路が砂利道から舗装道路に変わったので、付近の住民からは大変喜ばれた。なかでも、丸山通りや八幡通り、一の橋通りは当時としては大規模な工事であったが、掘削から側溝、土留、舗装に至るまでのすべての人力を、それも失業対策事業で行ったわけであるから、今考えるとよく出来たものである。
36年には、一中のプールの築造を行った(このプールは60年度に改修)。これまで、町で施工する土木工事で、プールの築造は行ったことがなかったので、これが初めてのことである。それでも、専門業者に発注することなく、素人集団による施工であった。
当時はまだ、建設機械も現在ほど発達していなかったので、スコップで掘削し、残土はネコ車で運搬するという繰り返しであった。形枠や鉄筋の組み立ても素人が行った。配管などは専門の職人に応援を求め、まがりなりにも成し遂げた。以降、三小(37年)、二小(38年)、旧一小(40年)、二中(42年)、四小(43年)、五小(44年)と7校のプールを失業対策事業で続々と築造し、夏を待ち焦がれるカッパたちへの水へのプレゼントを行った。いずれもその年の夏に、子どもたちが使えるように工期との戦いが続き、その日ごとに変わる人夫を相手に悪戦苦闘の末、完成したと聞いている。
これら失業対策事業で作られた道路やプールは、一部改修されたものの今もその形跡をとどめている。失業対策事業の人夫費や原材料は、一部は市で負担したものの、ほとんどが国費であったため、当時の土木事業に大きく貢献した。
その後、人夫の減少で63年に廃止された。