画期的な団地、多摩川住宅建設
狛江市の西端、調布市と境を接するところに「千町耕地(せんちょうこうち)」と呼ばれる一面の田園地帯があった。
その耕地には、たくさんの清水が流れ、「しじみ川」と呼ばれる美味な黄色いシジミが採れる川があったり、根川ではコイやフナはもちろん、トゲブナやタナゴもたくさん採れた。川沿いにはハス田が広がり、そのほかにクレソンやワサビの栽培が盛んであった。昭和10年頃までは、老舗の三越がそれらを買い付けに来たそうである。
ところがこの田園地帯に、昭和30年代半ば、東京への人口集中に伴う深刻な住宅難に対処するための、大規模な集合住宅の建設が求められ、この地に「多摩川住宅」建設用地として白羽の矢が立った。
一頃、この地一帯にトラックターミナルを建設するという話もあった。当時、東京都住宅公社による住宅建設は23区内でもっぱら進められていたが、建設適地の減少と地価の高騰のため、35年を境にして都心から離れた三多摩地区に建設地を選定せざるを得ないという事情があったようで、37年頃から用地取得が開始され、翌年には宅地造成の作業に移るというかなり早いテンポで作業が進められた。
その頃、狛江市内の農家では、自分の働き場所であった田を売り、それで得たお金で萱葺きの家から現代風の家へと、建替えラッシュが続いたという。
造成当時のことである。団地内に鉄道が通るという話が突然持ち上がった。喜多見駅から稲城本町を通り南多摩丘陵の総合開発計画地(いわゆる多摩ニュータウン)へ向けて小田急線を通そうというものであった。現在、中和泉派出所がある交差点付近に新しい駅を、また、線路の東西を横切る道路の幅員を倍以上に広げる計画も出されたが、新線はついに実現されなかった。
多摩川住宅は、昭和39年度に建築工事に着手し、3期にわたる工期を経て、最終的には43年度に完成した。
この多摩川住宅は、敷地33万4,000平方メートル、賃貸住宅1,826戸、分譲住宅2,048戸、計3,874戸の規模を誇る団地で、12階建ての高層建築をはじめ大型店舗の導入、野球場、テニスコート、公園のほか、小・中学校3校を含む、公社初のマンモス団地であった。
団地内の第四小学校は、この時期に建設されたものであるが、当時はまだ、集合住宅の建設に伴う公社の負担や、国などの補助は、現在ほど確立されておらず、関係者は大変な苦労をした。結局、四小用地14,163平方メートルのうち、7,679平方メートルは、同地域内にあった和泉地区の所有地を市に寄付していただき、これと交換し、畦畔を除く5,505平方メートルの用地取得費5,426万円は、公社に対する10年間の年賦償還、建築費5,410万円は、補助金・借入金でまかなった。
完成後、この画期的な団地は、その規模、斬新さを誇り、モデル団地として、多くの見学者を迎えた。
44年5月22日、皇太子殿下(当時)が視察に訪れた。団地の中心にある集会場でこの団地についての概要の説明をお受けになり、そのままエレベーターで団地の屋上に上られた後に、お車に乗られ浄水場を見学される予定であった。ところが、当時の伊勢丹の社長が殿下とテニスのお仲間であったとのことで、急きょ、予定を変更され、隣の伊勢丹ストアーの見学に向かわれてしまったとか。
お車までの道中をひと目見ようと沿道をうめた人々や説明にあたった公社職員、警備にあたった警察官までが、この予期せぬ行動にみんな翻弄させられてしまったとのことである。