し尿の汲み取りはリヤカー2台でスタート
昭和30年頃から狛江町にも、多くの人が移り住むようになった。
この頃は、ほとんどが田畑で、肥料に人糞が使われていたので、汲み取りは、住民が直接農家に頼んでいた。しかし、化学肥料の普及と衛生的な見地、また人口増による排池量の増加で、今までの農家による汲み取り作業が困難になってきた。
汲み取りを断られ処理に困る家庭が増え、住民からの要望・陳情の声が多く寄せられ始めたため、清掃法にもとづき町でこれを行うことになった。この費用は町民が負担すべきだということで、30年12月に狛江町し尿処理手数料条例を制定。これが、町営の汲み取り事業のスタートである。
汲み取り事業の当初は、処理場がないために、とりあえず畑の隅に設置されていた肥だめを農家と交渉のうえ借りて、汲み取ったし尿を捨てていた。
作業は、大型リヤカー2台で、1台につき3人の作業員がつき、肥樽を6本積み、肥樽をてんびん棒で担ぎ柄杓で汲み取った。
1樽(36リットル)20円、半樽(18リットル)10円の汲み取り券を町内のお米屋さんにお願いして販売し、利用者はその券を前もって購入しておき、汲み取った際に作業員に樽数分の券を手渡す仕組みになっていた。
最初2台のリヤカーでスタートしたが、利用が多くなるにつれ、5台に増やしたが、それでも作業が遅れがちで、苦情の電話は一日に50件から80件にものぼった。33年、リヤカーでは追いつかずバキュームカー(三輪車)を購入し対処したが、捨て場の肥だめは満ぱいになり、今の西河原公民館の隣の山に穴を掘り、そこに捨てたり、稲城町や調布市、登戸方面まで捨て場を捜し求めて投棄したこともあった。
この頃の担当者は、早朝から深夜まで悪戦苦闘の毎日で、全身がし尿でズブ濡れになることもたびたびであった。
このように、し尿の処理に困窮していた頃、町内にし尿の処理上ごみを焼却する「狛江町清掃工場」建設の構想を当時の石井三四郎町長が考えていた。岩戸の世田谷境の約1,000坪の田んぼを候補地にあげ、町の有力議員や数人の地主と工場建設の計画について何度か話し合いをもった。
しかし、内々に協議を続けていたにもかかわらず、いつしかこの計画が地元の住民の耳に入り、正式な交渉に入らぬうちに猛烈な反対運動が起こった。
最初は計画に賛成し協議に加わっていた人々までも、反対を叫ぶようになり、この計画を断念せざるを得なくなった。
34年、国分寺町長の紹介で現在委託している加藤商事に終末処理を委託。町の小型バキュームカーで汲み取ったし尿を中継槽(駒井地区の共同貯留槽)に一時たくわえ、加藤商事の大型車(10トン車)に積み替えて、往復80キロメートルもある埼玉県狭山市の山林(加藤商事所有)まで運び投棄した。しかし、付近の住民に反対され、46年3月でこれを中止せざるを得なくなった。
このため、ふじみ処理場(三鷹市・調布市で構成)にも頼んだが、処理能力、地元感情などの理由で断られ、武蔵村山市の湖南衛生組合に暫定処理を依頼した。
同時に、狛江と同様に処理に困っていた府中、国分寺、清瀬市と共同で、都に海洋投棄をお願いした。荒川上流の和光市に桟橋を設置し、平水船で東京湾の第六台場まで運び、そこから都の大型船に積み替えて、太平洋に運び投棄するという方法である。この海洋投棄を建設省、東京都、埼玉県、和光市の協力により、47年5月22日から49年3月31日まで続けた。
この海洋投棄とは別に、し尿処理を行っていた稲城・多摩衛生組合への加入の交渉も進めた。46年に狛江市の加入により、ごみ処分組合の「多摩川衛生組合」と一つになるとともに、施設を拡張した。そのための住宅公団から購入する用地費、拡張施設費の全額を狛江市が負担することで、了解が得られ現在に至っている。