狛江に高校を
都立高校への進学は、当時から学校群での通学区域があり、狛江市内の高校生は、神代、三鷹、立川、南多摩、千歳高校などに通っていた。
昭和40年代の人口増とともに高校受験を希望する子を持つ父母から、狛江にも高校をとの機運が急速に高まり、市長や教育委員会、市議会へ陳情・要望が多く寄せられた。
市議会に「都立学校誘致対策特別委員会」が設置され、同委員会が中心となり、建設予定地の選定や関係機関への積極的な誘致活動が行われた。
建設予定地は、多摩川のほとりの現在の地、池とバラ園があったところに白羽の矢が立てられた。
この池は砂利採取後にできた湧水の池で、この水は都区内に水道水として供給されていたが、体長1メートルを超すようなコイやソウギョが回遊し、フナ、ナマズ、ライギョなども生息する淡水魚の宝庫でもあった。また、昭和21年には淡水クラゲの大群がみつかり、「狛江淡水クラゲ発生地」としても知られていた。
池のほとりのバラ園は、多摩川寄りの小さな入口にバラのアーチがあり、それをくぐると、色・品種・大きさの異なるたくさんのバラであふれ、多摩川べりの四季を彩っていた。休日ともなると、噂を聞きつけた多くの人々、多くの著名人が遠方から訪れた。歌人佐佐木信綱氏もその一人であったという。
その土地の所有者は、すでに他界されたが元東京大学農学部名誉教授で、バラ園はその親族の方が経営されていた。このバラ園の周囲には、全国各地の農林試験場から贈られた五葉の松をはじめとする珍しい木や花が植えられ玉川大学の実験農場ともなっていたが、教育者として教育に理解を示していた所有者は、東京都からの高校建設にあたる土地の提供依頼に快く承諾をし、46年12月に約10,000坪に及ぶこの土地の買収が成立した。
47年6月、都議会において校舎建設工事の契約議案が議決され、7月11日に、工事が開始された。池の造成には、当時、工事が進められていた新玉川線の発掘残土が運び込まれ、工事は順調に進んだ。しかし、当初は、校舎2階までの部分竣工の段階で自校開校が予定されていたが、田中内閣の提唱する「日本列島改造論」ブームで地価の急騰と建築資材の不足や高騰等により工事が遅れ、新校舎での授業開始は2学期からとなった。
狛江高校は、47年10月26日、葛西南、清瀬の両校とともに設置された全日制、普通科30学級の大規模高校で発足し、現在では、多摩地区屈指の高校に成長した。
建設当時、池の周りに植えられていたイチョウもすばらしい並木に育ち、同校のシンボルとして、また校章にもなっている。