南面開放形から飛行機形、校舎への変遷
従前、校舎といえば木造であったが、昭和36年に三小の校舎増築が木造でなされたのを最後に、校舎の新・増改築は鉄筋コンクリート造りとなった。
最初の鉄筋校舎は一中で、既存の木造校舎の改築と併せ増築されたものである。この当時に建設された校舎はすべて、南側に廊下を配置し、廊下の南面は窓や壁のない素通しの形で、南面開放廊下形式と呼ばれているものがほとんどである。
この形式は、南側の壁一面が節約できるので、工事費を安くするために考案されたようであるが、この形式で建設された校舎は、降雨時に風が吹いたりすると廊下が濡れたりして不評を買い、この形式は39年までに増・改築した一小、二小、三小までである。
その後、41年頃には蜂の巣形と呼ばれる校舎が誕生した。これは、建築面積を狭くし、建築工事費を安くするために考えられたもので、廊下と階段を中央に集約し、その周りに教室を配置しているので、上空から見ると蜂の巣の形に見える。
四小と時を同じくして建てられた多摩川住宅内の調布市染地小学校がその形式である。
四小の建築に際しては、飛行機形で設計された。これも建築面積を狭くするために工夫されたもので、上空から見ると飛行機の翼と胴体のように見えるのでこの名がついた。モダンなデザインの建物で、早大工学部の安東研究室の設計によるものである。当時、安東研究室では、早大の戸山校舎を設計し、建築工事中であったが、四小はこの校舎とほぼ同じような形で設計された。鉄筋3階建の校舎には廊下がなく、教室内を2面採光によって光の均一制を図るなど従来の校舎とは異なるものであった。
安東研究室は、既に故人となられた安東勝男助教授(当時)が主宰しておられ、同助教授は、狛江市在住で、教育委員も勤められていたので、狛江の学校建築に大変理解を示され、ご尽力もいただいた。同助教授は、釣りが好きで、多摩川で釣糸をたらしながら、飛行機形校舎を考えられたという。
この飛行機形の校舎の評判は、最初は、もの珍しさもあり不満はなかったが、その後、廊下がなく使いにくいという声があがり、その後の校舎建築は、旧来の北側廊下形式となっている。