令和5年10月1日号12面(1375号)
小池邦夫のうちあけ話 13 絵手紙のひと
海外雄飛 筆墨の故郷・中国で初の交流展
《絵手紙が海を渡った。1991年11月、中国・上海の美術館で海外初となる絵手紙交流展が開かれた》
とりもってくれたのは、僕の友人で水墨画家の杉谷隆志さん。十年来中国の画家らと民間交流を続けてきた人です。筆墨のふるさとで、「詩書画一体」の絵手紙を通して友好の花を咲かせたい――。こんな熱い思いを込めて、中国側と日本絵手紙協会に提案してくれたのです。
中国には「絵手紙」という言葉はありません。中国語で「手紙」はトイレットペーパー。でも、さすがに文字の国ですね。「画信伝友情」と翻訳されました。
不安はありましたよ。なにせ、現地の様子がまったくわからないんですから。ただ、杉谷さんも僕も向こう見ずだから、ぶつかっていったわけです。絵手紙仲間の奮闘のおかげで、会場には畳大からはがきまで、260枚のパネルに貼られた230人の千数百点が並びました。
《500人以上が詰めかけた開会式で、小池さんは「我々は絵手紙の遣唐使です」とあいさつした》
階段まで人で埋まってね、すごい盛り上がりだった。オープニングで、太くて赤いテープをはさみでカットしながら実感したね。日本と中国に橋がかかったんだと。会場の通路の空間に、黄色と黒のロール段ボールで川の流れを作るなどの斬新な会場構成も話題になったな。
中国の出品者はプロの水墨画家だけど、こちらは素人の普段着のままの路線を貫いた。「ヘタでいい、ヘタがいい」の精神でね。これが中国人の心にも響いた。一生懸命かいたヘタさ、情熱をぶつけてかいた力強さが伝わったんだね。
《上海の美術担当の新聞記者が、一晩でかきあげたという30枚の絵手紙の出来栄えにうなった》
うち1枚は、絵手紙をかく僕の後ろ姿に徳利と杯を配し、中国語で詩を添えている。<絵手紙は小さいが、池の蓮の花のようだ。書いてある言葉を読むと、酔う>
やってくれたなと、心が躍りました。暮らしの中で楽しんで自由に描く「実用の美」が、中国でも受け入れられた手ごたえを感じたね。
5日間の会期中に来場者は2千人を超え、大成功でした。絵手紙は確かに「友情」を伝えたのです。
次回はNHKの教養番組に出演し、絵手紙人気に火が付く話を。
(聞き手 元新聞記者・佐藤清孝)
※「小池邦夫のうちあけ話」は、引き続き連載を継続します。
名誉市民の小池邦夫さんが逝去されました
絵手紙作家で狛江市名誉市民である小池邦夫さん(享年82歳)が、8月31日(木曜日)に逝去されました。
ご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。
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功績
小池さんは、日本における「絵手紙」の第一人者として、絵手紙文化を日本全国に広めるための取り組みに尽力をされてきました。
昭和36年に絵手紙をかき始め、昭和56年に狛江郵便局が開催した日本で初めての絵手紙教室に講師として指導されたことが発端となり、文化としての絵手紙が根付き、全国に広がっていきました。
令和3年には、絵手紙作家の第一人者として絵手紙の普及に係る各種取り組みをけん引し、文化芸術の振興に多大な貢献をされたことから、文化庁長官賞を受賞されました。
なお、狛江市では令和2年に狛江市初の名誉市民の称号を贈呈しています。
小池邦夫先生を偲んで(市長メッセージ)
小池邦夫先生は、縁あって昭和49年に狛江市に転入されて以降、約50年にもわたり、狛江市を活動拠点として「絵手紙」の魅力を伝え広げる活動に尽力されてきました。
私自身、市職員時代に小池先生と出会い、すぐにその人柄と「絵手紙」の素晴らしさに魅了されました。
その後、「絵手紙」は狛江市のまちづくりの大きな柱として確立され、今や市内外問わず多くの方に「絵手紙発祥の地?狛江」と認識されるようになりました。「絵手紙」という文化を育みながら、一方で全国に向けて発信できる力を狛江市に与えていただいたことには、感謝の気持ちが尽きません。
小池先生のご逝去は、狛江市にとって計り知れない大きな喪失ではありますが、市民の皆様とともにそのご功績に思いを馳せ、狛江市への長年のご貢献に深く感謝を申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。
狛江市長 松原 俊雄