新宿区狛江村林間学園の戦後

 現在あいとぴあセンターと西河原公民館があるところには、昭和13年に建てられた四谷区教育農園があった。太平洋戦争中一時錬成所として使われた時期があったが、戦後の昭和22年5月から23年7月まで狛江村が借用して狛江中学校(新制)の校舎として利用していた。
 昭和24年、まだ戦後の混乱が収まらず、旅行などできる状態ではない社会の中で、せめて子どもだけでも自然と触れ合う機会を作ってあげたいと、新宿区では四谷区教育農園を狛江村林間学園と名称を変更し、夏季施設として再開することにした。
 昭和31年8月の新宿区広報には「狛江学園は小中学校を対象に7月10日から8月29日までの51日間、小学校なら100名、中学校なら80名を収容でき、日帰りを原則とするが宿泊もでき、経費は現品持参、自炊」とある。また、昭和32年9月の広報には「多摩川の清流に望んだ狛江林間学園は、付近一帯が田園に囲まれ、手近な学園として親しまれている。落合第三小学校の場合は4年生が対象で最初の集団外泊でもあり、指導方針としては夜、泣かないことと、約束を守って喜んで生活することに絞られた。その結果は一人も泣く者はなく、約束も実に良く守られていた。朝6時前に目の覚めた児童たちも起床時間までは実に静かにしていた。水泳時間も(にわ)か雨で流れてしまうと、先生たちもその穴埋めに一苦労。洗面器の中に木の葉を入れて『どの子でも名前があるようにどんな木の葉にも名前があります』といったような学習が行われたが、児童たちのつまらなそうな表情も次第に先生の話の中に引き入れられていった。水泳は1回2時間で、15分ごとに時計係の合図で5分乃至(ないし)10分間の休憩がとられるが、児童たちは魚とりで大忙しといったところ。」と書かれている。
 また、昭和34年7月の広報には「費用は小学生21円。中学生30円の交通費(新宿―狛江往復団体割引)だけ」とある。その年は700名が利用していた。
 昭和36年7月の広報には「多摩川べりの川原で水遊びや散歩にはもってこいのところ。また、野菜づくりの実態、農村と都市との関係など社会科の上でも重要な役割を持っています。」とあって、教材も作られていた。
 しかし、その後多摩川の汚染と都市化が進み、観察のための効果があまりなくなったので参加校は次第に少なくなった。
 中学校は昭和35年に144名(校数不明)、小学校は昭和40年に6校459名を最高に減少を始め、中学校では昭和41年から、小学校では翌年から参加者なしとなって、昭和45年8月31日で閉鎖、同年9月29日に狛江町に売却。そして昭和48年1月に狛江市の福祉会館として開館することになった。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)