五月二十五日の空襲がほぼ終わりに近づいたころ、ゴーという音とともにたくさんの焼夷弾が落ちてきて、多摩川の対岸から宿河原堰堤、橋本木工所のあたりまで火の海になった。また、上空で発火した焼夷弾から漏れ落ちたゴムのような油脂や、風にあおられて飛んできた火の粉や灰が駒井の家々を襲った。藁屋根が多かった駒井の各家々では屋根に上がり、一生懸命火の粉をたたき落とした。高橋武松さんもその一人で強い風の中、ほうきを持って必死の思いだったという。
 本部詰めをしていたある警防団員は、この日の空襲はただごとではないと思いわが家に向かった。途中、岩戸の八幡神社の前の川まで来た時には河原の方が盛んに燃えていた。わが家に着いたが、あたり一面火のついた油脂が木の枝に付着して、たたいても消えなくて大変だったという。中島康夫さんの家でも、藁屋根の上に集束焼夷弾のベルトや止め金が火の粉と一緒に落ちてきたのではしごをかけ、水に濡らした火はたきを持って屋根に上がり、夢中で消したという。後で見たら焼夷弾が二本、畑の中に飛び出していた。高橋晟さんも庭続きの畑のトマトの支柱に焼夷弾の曲脂がついてメラメラと燃えているのを見たという。
 この惨状は岩戸からも見えて、線香花火をひっくり返したようだったと言っているし、頭の上から落ちてくるのだから怖くて見ていられなかったと言った人もいた。
 あまりのすさまじさに防空壕の中にいることができず、子供を背負ったまま飛び出して、イタチ山(現在の第六小学校辺り)の下の田に水を引く水路のトンネルに飛び込んでただひたすら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えていた人、「うちが焼けちゃうよ!」と言って大声で泣き叫んだ人もいて、この世の姿とは思えない惨状に生きた心地がしなかったという。田植え前だったこともあって、水路には水がなく、道路の下の土管も避難所になった。
 円住院の今村ふみ子さんは子どもと一緒に防空壕の中にいたが、焼夷弾が落ちる音のあまりの怖さに外に飛び出した。ここにいても防げるわけでもなし、おばあちゃんも本堂にいることだし、どうせ死ぬなら本堂に行こうと思って本堂に行き、そこでしっとしていたという。
 夜が明けてみると、田んぼには集束焼夷弾を束ねたベルトや止め金がたくさん落ちていた。また、河原には無数の焼夷弾の燃え殻が散乱していた。そこで警防団のメンバーがリアカーを引き、散乱した燃え殻を集めて歩き、国民学校に運んだ。この日の空襲では、麹町、赤坂、新宿、渋谷など山の手地区を中心に大きな被害を出し、また、世田谷、調布、登戸、宿河原など周辺地区にもたくさんの焼夷弾が落とされて、各所で火災が発生している。(井上)