農業会の周辺も炎上
昭和初年に、農業会(現在のマインズ農協狛江支店)の前の都道が内北谷(東和泉一丁目)の田んぼの中を一直線に通り、周辺が耕地整理されて道路沿いが埋め立てられ、農協の前身である産業組合が今の場所にできると間もなく日中戦争が始まった。その周辺に家が建ち始めたのはそれから後のことになる。駒井から南側に安田寅一さん、北側に松坂新三さんが前後して転居して来た。松坂さんはここで時計屋を開業した。その後に上和泉(中和泉三丁目)から分家して来た本橋武雄さんは松坂さんとは同級生だった。初め、和泉松原(中和泉三丁目)から銀行町(東和泉一丁目)に氷屋を開店した白井良輔さんも、所帯を持つためここに家を建てた。ここでは一番後輩の本橋さんは十六年五月家を建てて新婚生活に入ったが、八月に召集令状が来た。その時松坂さんはすでに戦地にいた。安田さんも本橋さんとほとんど同時に応召、二人とも南方へ回されシャワに行った。やがて小田急の踏切から農業会までの都道の両側は、一応家並みが揃い町場の形が整っていった。
二十年五月二十五日の夜半から翌朝にかけての空襲は、この周辺にも焼夷弾の雨を降らせた。白井さんは学校が炎上している様子から、避難の準備をしながらも、「学校へ応援に行かなけりゃあ。」と妻の宇多子さんと話していた。その矢先だった。焼夷弾の直撃で店のカーテンが燃え出した。慌てて風呂桶の水をかい出して火を消し止めた。リアカーに非常用に前から蓄えてあった米や多少の家財道具を積み込んで、南側の畑へ持ち出した。戻ってみると二階にすっかり火が回って、もう家には入れなかった。安田さんは消防署へ勤めていて留守で、妻の歌子さんが年老いた両親と子どもを守っていたが、火の回りが早くて仏壇から位牌を持ち出すのが精一杯だった。本橋さんの出征後、祖師谷郵便局に勤めて留守を守っていた妻の保子さんがどうされたかは、すでに故人となられてしまい聞く術もない。松坂さんの家は新三さんが十八年に戦没され、道族となられた奥さんが寂しく暮らしておられた。コンニャク屋を開業していた植草さんの家は息子二人が応召中、三男の喜代冶さんの他三人の娘たちがともに暮らしていた。松坂さんの隣で新聞販売店のご主人も応召中で、統制下の難しい経営が奥さんの肩に掛かっていた。農業会の西側の大久保広吉さん。松坂さんの家作に住んでいて繊維関係の仕事をしていた外国人のエーアフマトフさん他何軒かの家。そうした人達が住んでいたこの一角が、みんな直撃を受けて燃え上がった。農業会の事務所や倉庫などもたちまち火の海となった。南の風にあおられて、火の手はみるみるうちに広がっていった。
白井さんの東隣りの林さんは直撃を免れた。白井さんの家の火が羽目板をなめ、かなり焼けたが焼夷弾の直撃を受けなかった家の人々が、必死になって消火したお陰で奇跡的に延焼を食い止めた。この地区は農業会の他十数軒が全焼して、村の中で一番多くの戦災者を出してしまった。だが不幸中の幸いで、一人のけがもなく無事避難することかできた。
あたり一面焦土と化してしまった中で、農業倉庫とその道路沿いの数本の樹木、農業会の東側のイチョウの木数本だけが残り、農業会の事務所の中央に金庫が二基ぽつんと立っていた。
焼け跡を片付けた後、白井さん夫婦と農業会の石黒さん、それに安田さんは一旦本家に戻った。本橋さんは稲城の実家へ帰った。他の方々もそれぞれ夫の身寄りを頼ったようだ。松坂さんの家作に住んでいた四所帯ぐらいが、焼け残った農業倉庫に数日間留まることになった。
白井宇多子さんはその時臨月だった。今の都営狛江団地の近くに兄の家があり、出征中の家を義姉が守っていたので、そこで一週間ほど後に女の子を出産した。産婆さんは小黒さんで、初産の宇多子さんの面倒をとても良く見て下さった。世間並みのお礼を工面して差し出すと、「あんたんちはそれどころではないだろう。」と三分の一しか受け取ってくれなかった。
終戦になった。十月に本橋さんは復員してきた。三か月しか住まなかった我が家は跡形もなかった。保子さんが身をていして持ち出した物は、小さなリアカーに乗ったわずかな家財だけだった。本橋さんは小学校を卒業すると、一本立ちするためには手に職をつけなければと、ほうき作りの修行をした。将来の独立を願ってせっせっと貯金した。そうして独力で作り上げた「狭いながらも楽しい我が家」とはわずかに三か月間の暮らし。十数年の努力の結晶が灰となってしまった現実にがく然とした。戦後の苦しい生活の中で、一層困難な道を歩くことになった戦災者たち。本橋さんに限らずみんなが営々と築き上げてきたそれぞれの家庭だった。今は職もなく、家も食べ物もない。だれもかれもが大きな困難を背負って一からの出直しだった。
兵舎の払下げで農業会の事務所が十二月にできて、暗い農業倉庫で仕事をしていた職員が引越すとともに石黒さんが戻ってきた。明けて二十一年は一番苦しい時期だった。苦労を重ねてやっとの思いで本橋さんが元の場所に家を建てたのは、戦災から一年を経過した後。白井さんは開業当時商売のために買ったオート三輪車が徴発されてしまい、その代りに買ったリアカーが戦災のときにやっと残ったので、それを唯一の資本として仕事を再開。安田さんも新しい職が得られ、大久保さん、植草さんたちも困難を乗り越えて何とかこの場所に家を再建した。
新聞店のご主人さんは広島の部隊にいて原爆に遭い戦死され、松坂さんとともに重ねて不幸となってしまった。こうして他の人達は再起の場所を他に求めて狛江を出て行かれた。
五十年を経過した今、白井さん、本橋さん、安田さん、大久保さんの四家族だけが残り、その中でもあの空襲体験者は五人に満たない。本橋さんは焼け跡の庭に火を免れて根付いていたあけびの盆栽を、苦しかったあのころの思い出のよすがとして大切に育てていた。(田代)
二十年五月二十五日の夜半から翌朝にかけての空襲は、この周辺にも焼夷弾の雨を降らせた。白井さんは学校が炎上している様子から、避難の準備をしながらも、「学校へ応援に行かなけりゃあ。」と妻の宇多子さんと話していた。その矢先だった。焼夷弾の直撃で店のカーテンが燃え出した。慌てて風呂桶の水をかい出して火を消し止めた。リアカーに非常用に前から蓄えてあった米や多少の家財道具を積み込んで、南側の畑へ持ち出した。戻ってみると二階にすっかり火が回って、もう家には入れなかった。安田さんは消防署へ勤めていて留守で、妻の歌子さんが年老いた両親と子どもを守っていたが、火の回りが早くて仏壇から位牌を持ち出すのが精一杯だった。本橋さんの出征後、祖師谷郵便局に勤めて留守を守っていた妻の保子さんがどうされたかは、すでに故人となられてしまい聞く術もない。松坂さんの家は新三さんが十八年に戦没され、道族となられた奥さんが寂しく暮らしておられた。コンニャク屋を開業していた植草さんの家は息子二人が応召中、三男の喜代冶さんの他三人の娘たちがともに暮らしていた。松坂さんの隣で新聞販売店のご主人も応召中で、統制下の難しい経営が奥さんの肩に掛かっていた。農業会の西側の大久保広吉さん。松坂さんの家作に住んでいて繊維関係の仕事をしていた外国人のエーアフマトフさん他何軒かの家。そうした人達が住んでいたこの一角が、みんな直撃を受けて燃え上がった。農業会の事務所や倉庫などもたちまち火の海となった。南の風にあおられて、火の手はみるみるうちに広がっていった。
白井さんの東隣りの林さんは直撃を免れた。白井さんの家の火が羽目板をなめ、かなり焼けたが焼夷弾の直撃を受けなかった家の人々が、必死になって消火したお陰で奇跡的に延焼を食い止めた。この地区は農業会の他十数軒が全焼して、村の中で一番多くの戦災者を出してしまった。だが不幸中の幸いで、一人のけがもなく無事避難することかできた。
あたり一面焦土と化してしまった中で、農業倉庫とその道路沿いの数本の樹木、農業会の東側のイチョウの木数本だけが残り、農業会の事務所の中央に金庫が二基ぽつんと立っていた。
焼け跡を片付けた後、白井さん夫婦と農業会の石黒さん、それに安田さんは一旦本家に戻った。本橋さんは稲城の実家へ帰った。他の方々もそれぞれ夫の身寄りを頼ったようだ。松坂さんの家作に住んでいた四所帯ぐらいが、焼け残った農業倉庫に数日間留まることになった。
白井宇多子さんはその時臨月だった。今の都営狛江団地の近くに兄の家があり、出征中の家を義姉が守っていたので、そこで一週間ほど後に女の子を出産した。産婆さんは小黒さんで、初産の宇多子さんの面倒をとても良く見て下さった。世間並みのお礼を工面して差し出すと、「あんたんちはそれどころではないだろう。」と三分の一しか受け取ってくれなかった。
終戦になった。十月に本橋さんは復員してきた。三か月しか住まなかった我が家は跡形もなかった。保子さんが身をていして持ち出した物は、小さなリアカーに乗ったわずかな家財だけだった。本橋さんは小学校を卒業すると、一本立ちするためには手に職をつけなければと、ほうき作りの修行をした。将来の独立を願ってせっせっと貯金した。そうして独力で作り上げた「狭いながらも楽しい我が家」とはわずかに三か月間の暮らし。十数年の努力の結晶が灰となってしまった現実にがく然とした。戦後の苦しい生活の中で、一層困難な道を歩くことになった戦災者たち。本橋さんに限らずみんなが営々と築き上げてきたそれぞれの家庭だった。今は職もなく、家も食べ物もない。だれもかれもが大きな困難を背負って一からの出直しだった。
兵舎の払下げで農業会の事務所が十二月にできて、暗い農業倉庫で仕事をしていた職員が引越すとともに石黒さんが戻ってきた。明けて二十一年は一番苦しい時期だった。苦労を重ねてやっとの思いで本橋さんが元の場所に家を建てたのは、戦災から一年を経過した後。白井さんは開業当時商売のために買ったオート三輪車が徴発されてしまい、その代りに買ったリアカーが戦災のときにやっと残ったので、それを唯一の資本として仕事を再開。安田さんも新しい職が得られ、大久保さん、植草さんたちも困難を乗り越えて何とかこの場所に家を再建した。
新聞店のご主人さんは広島の部隊にいて原爆に遭い戦死され、松坂さんとともに重ねて不幸となってしまった。こうして他の人達は再起の場所を他に求めて狛江を出て行かれた。
五十年を経過した今、白井さん、本橋さん、安田さん、大久保さんの四家族だけが残り、その中でもあの空襲体験者は五人に満たない。本橋さんは焼け跡の庭に火を免れて根付いていたあけびの盆栽を、苦しかったあのころの思い出のよすがとして大切に育てていた。(田代)
登録日: 2001年10月18日 /
更新日: 2003年12月9日