岩戸にも焼夷弾の雨が
五月二十五日の夜、岩戸橋付近(岩戸北三丁目)にもB29の焼夷弾が投下されて直撃を受け、三角利一さん、石井大吉郎さん・美津子さんの姉弟、河野雅冶さんの家、東京繊維女子寮と倉庫が全焼し、三角寿郎さんは物置を焼失した。近くの三角二三三さん、土屋秀光さん、小川重次さん宅は焼失を免れることができた。
三角利一さんの家は曽祖父、祖父母、両親と兄弟六人の家族で農業を営み、鶏もたくさん飼っていた。二十五日の夜は空襲警報か発令されるとすぐ防空壕に避難し始めた。頭上をB29が通過したかと思う間もなくシャーッという金属をこすり合わせるような音がし、辺りが真昼のように明るくなりバラバラと焼夷弾の雨が降ってきた。あっという間に火の手が上がり、みるみるうちに母屋と物置、それと鶏小屋にまで火は燃え広がっていった。消防ポンプが駆け付け、懸命な消火活動をしたが火勢は強く手のほどこしようがなかった。家は焼けてしまったが、家族全員無事だったのは不幸中の幸いたと思った。焼失後は焼け残った土蔵で生活を始めた。その後、加藤品芳さんの仕事場を改造し、しばらくそこで忍耐の生活をしていた。
石井大吉郎さん、美津子さんは、父親が戦死し、母親と子ども四人で満州から引き場げ、半年ほど親戚の世話になり、その後岩戸に住むようになった。いざ空襲という時は、素早く身支度を整え、すぐ避難できる態勢をとっていた。二十五日の夜半も警報発令のサイレンを聞き避難場所に向かおうとした。飛来するB29の爆音をいつもより激しく感じた。シャーッ、シャーッという物をこするような音がし、目の前がパーッと明るくなったと思った時、バラバラッと焼夷弾が落ちてきた。あまりの恐ろしさに足がすくみ、ただぼう然としていた。はっと気がつくと我が家の燃えているのが目に入った。土足のまま中に飛び込み、たんすの引き出しから手当り次第衣類を外に投げ出した。庭は焼夷弾ででこぼこの穴だらけ、油脂が流れ、火は地面をはうように燃え広がっていた。足にベタベタはりつきとても歩きにくかった。といだお米の入ったお釜を大事に抱え必死に松林の中に避難した。大吉郎さんは寝具をかつぎ出し、家の前の川にぶち込み銀行町の方に向って避難した。しばらくして家に戻った。川に投げ込んでおいた寝具は焼けこげて使いものにならなかった。焼けた家の跡には屋根を貫いた焼夷弾が十一発、半分コンクリートに突き刺ったものもあった。戦死した父の遺品の刀や勲章など全部焼いてしまったが、家族全員無事だったのでほっとした。焼失後は焼け跡にバラックを建てた。畳三枚を穴のあいた焼けトタンで囲み、トイレはまわりにムシロを下げて囲い、風呂は外に雨漏りがしそうな焼けトタンで囲った粗末なもの、その中で親子五人の不自由な生活が始まった。
石井さんの家の敷地内にあった東京繊維の女子寮と倉庫も全焼してしまった。寮の人は全員無事だったが、倉庫の中に積み込んであったカボック(繊維に混せ込んて使う油性の強いもの)の中に焼夷弾が落ち、一週間ぐらい鼻をつくようなにおいを出してくすぶり続けていた。
河野雅冶さんは洋風造りの家に住み、百頭位の豚を飼っていた。世田谷方面の台所から出る残飯を飼料にしていた。線路際にあった家も豚舎も豚も焼夷弾の直撃で全焼してしまった。
小川重次さんは第二国民警備兵として五月二十五日の夜は調布の飛行場に行っていた。明け方になって岩戸方面が焼けているから帰宅しろという命令が中隊長から出たので急いで帰った。三角さん、石井さん、河野さんは全焼していたが、小川さんの家は風上であったため焼け残っていた。昔、養蚕をしていた蚕室に焼夷弾が落ち、屋根を打ち抜いていたが、不発弾だったので助かった。母親が動けなかったので、空襲の時はいつもリヤカーに乗せて避難していた。近所が焼けた時、自分の家も焼けてしまったと思いこんでいた母親に「家が焼けたあ。」と言って泣き出されて困った。
前日に成城の御用林に疎開していた軍馬を農耕馬として借りていた。馬は火を見ると暴れるので家の者は隣りのおじさんに手伝ってもらい馬に半纏(はんてん)をかぶせて塚のある所に避難させたそうだ。(横尾)
三角利一さんの家は曽祖父、祖父母、両親と兄弟六人の家族で農業を営み、鶏もたくさん飼っていた。二十五日の夜は空襲警報か発令されるとすぐ防空壕に避難し始めた。頭上をB29が通過したかと思う間もなくシャーッという金属をこすり合わせるような音がし、辺りが真昼のように明るくなりバラバラと焼夷弾の雨が降ってきた。あっという間に火の手が上がり、みるみるうちに母屋と物置、それと鶏小屋にまで火は燃え広がっていった。消防ポンプが駆け付け、懸命な消火活動をしたが火勢は強く手のほどこしようがなかった。家は焼けてしまったが、家族全員無事だったのは不幸中の幸いたと思った。焼失後は焼け残った土蔵で生活を始めた。その後、加藤品芳さんの仕事場を改造し、しばらくそこで忍耐の生活をしていた。
石井大吉郎さん、美津子さんは、父親が戦死し、母親と子ども四人で満州から引き場げ、半年ほど親戚の世話になり、その後岩戸に住むようになった。いざ空襲という時は、素早く身支度を整え、すぐ避難できる態勢をとっていた。二十五日の夜半も警報発令のサイレンを聞き避難場所に向かおうとした。飛来するB29の爆音をいつもより激しく感じた。シャーッ、シャーッという物をこするような音がし、目の前がパーッと明るくなったと思った時、バラバラッと焼夷弾が落ちてきた。あまりの恐ろしさに足がすくみ、ただぼう然としていた。はっと気がつくと我が家の燃えているのが目に入った。土足のまま中に飛び込み、たんすの引き出しから手当り次第衣類を外に投げ出した。庭は焼夷弾ででこぼこの穴だらけ、油脂が流れ、火は地面をはうように燃え広がっていた。足にベタベタはりつきとても歩きにくかった。といだお米の入ったお釜を大事に抱え必死に松林の中に避難した。大吉郎さんは寝具をかつぎ出し、家の前の川にぶち込み銀行町の方に向って避難した。しばらくして家に戻った。川に投げ込んでおいた寝具は焼けこげて使いものにならなかった。焼けた家の跡には屋根を貫いた焼夷弾が十一発、半分コンクリートに突き刺ったものもあった。戦死した父の遺品の刀や勲章など全部焼いてしまったが、家族全員無事だったのでほっとした。焼失後は焼け跡にバラックを建てた。畳三枚を穴のあいた焼けトタンで囲み、トイレはまわりにムシロを下げて囲い、風呂は外に雨漏りがしそうな焼けトタンで囲った粗末なもの、その中で親子五人の不自由な生活が始まった。
石井さんの家の敷地内にあった東京繊維の女子寮と倉庫も全焼してしまった。寮の人は全員無事だったが、倉庫の中に積み込んであったカボック(繊維に混せ込んて使う油性の強いもの)の中に焼夷弾が落ち、一週間ぐらい鼻をつくようなにおいを出してくすぶり続けていた。
河野雅冶さんは洋風造りの家に住み、百頭位の豚を飼っていた。世田谷方面の台所から出る残飯を飼料にしていた。線路際にあった家も豚舎も豚も焼夷弾の直撃で全焼してしまった。
小川重次さんは第二国民警備兵として五月二十五日の夜は調布の飛行場に行っていた。明け方になって岩戸方面が焼けているから帰宅しろという命令が中隊長から出たので急いで帰った。三角さん、石井さん、河野さんは全焼していたが、小川さんの家は風上であったため焼け残っていた。昔、養蚕をしていた蚕室に焼夷弾が落ち、屋根を打ち抜いていたが、不発弾だったので助かった。母親が動けなかったので、空襲の時はいつもリヤカーに乗せて避難していた。近所が焼けた時、自分の家も焼けてしまったと思いこんでいた母親に「家が焼けたあ。」と言って泣き出されて困った。
前日に成城の御用林に疎開していた軍馬を農耕馬として借りていた。馬は火を見ると暴れるので家の者は隣りのおじさんに手伝ってもらい馬に半纏(はんてん)をかぶせて塚のある所に避難させたそうだ。(横尾)
登録日: 2001年10月18日 /
更新日: 2003年12月9日