太平洋戦争も終わりに近づいた昭和二十年五月ころには、毎日のように空襲警報が発令され米軍機が上空を通っていく。米軍機が飛来するのはいつも夕刻から夜間である。五月二十五日には夜中に空襲警報が発令された。学校の近くに住まいのあった桑原亥左雄先生は直ちに登校し、当直の岩本長吉先生と校庭に造られた防空壕の中で「今夜あたり東京都区内が攻撃されるのではないだろうか。」などと雑談しながら待機していた。その夜は、低空飛行で次々と飛来してくるB29の爆音がいつもより激しく感じられた。その時急に防空壕の入口辺りが目もくらむばかりに明るくなったので異常を感じて防空壕から飛び出した。

 当時狛江国民学校は、北側に平屋の古い木造校舎二棟(北側校舎)、正門正面に昭和七年に建て直された木造二階建で金瓦(土でなく鋳物瓦)の立派な校舎があり、南側にも木造平屋建の校舎一棟(南側校舎)があって、「コの字型」になっていた。二階建校舎は「新校舎」と呼び、村人が誇りにしていた学校であった。米軍機が投下した五十キロの焼夷弾三個は校舎の屋根を直撃して縁の下に火柱が立った。その火が縁の下をはって音を立てながら広がり青白い火炎がたちまち燃え上がっていった。平素から水を入れたバケツを校舎の前に並べいざという時消火に使う訓練はしていたが、この時はバケツのことなど眼中になかった。いきなり校舎の中に飛び込み職員室にある重要書類を入れたブリキ製の箱を持ち出し校舎から離れた所の防空壕まで移した。二回目の運び出しをしようとした時、火の手は校舎全体を包み、中に入ることはできなかった。この事を先ず校長に報告しなければと思ったが電話連絡はできず、電車も真夜中のことで通っていない。どうしたらよいか思案しているところへ学校の近くに住んでいる石井澄子先生が、学校の安否を気遣って自転車で駆け付けてきた。その自転車を借りて久保倉辰男校長宅(柿生村)まで急行した。事の次第を報告し、学校に戻った時には既に夜も白々と明け、校舎は見る影もなく焼け落ちて焼け跡には到る所、煙が立ち上っていた。校庭に残されていたのは青年学校が使っていた銃器室と校庭内の教員住宅、それに物置だけだった。学校の周りの家も何軒か焼けていた。

 翌朝出勤し、狛江の駅に降り立った関口皓二先生は、いつもと違い視界が広がっているのを見て、「学校がやられた。」と直感したそうだ。また初台の自宅より学校の方がずっと安全だろうと思い、女学生時代の思い出の文集やアコーディオンなど数々の大事な品を職員室に置き、みな焼いてしまったのをとても残念に思っていると大谷節子(旧姓萩原)先生は語っていた。
 谷田部錦三さんは「駅の方角に焼夷弾が落ちて燃え上ったので、第二分団詰所(学校の東門近く)へ駆け付けた。駄倉書店が燃えているというのですぐにポンプを引っ張って行き、消火に努めたが火勢が物すごかった。やがて学校の北側校舎が燃え出した。学校が大切だからというので引き返して駄倉の橋を渡り、和泉橋を渡ろうとしたが、物すごい火の勢いでどうしても橋が渡れない。仕方がないので松原から田中橋を渡り、遠回りして学校へ駆け付けた。もう火は校舎全体に燃え移り手のほどこしようがなかった。ともかく火の回りが速かった。」と話していた(『狛江市農業協同組合史』)。
 駒井の高橋作次さんと松坂保さんは、自分達の母校を何とか守らなければという気持ちで、手押ポンプを引っ張って学校へ駆け付けた。荒木貞夫さん宅の池から水を引いて消火しようとしたが距離が長かったので水が出なかった。努力の甲斐もなく学校が焼けてしまいとても悲しかったといっていた。
 上和泉の名古屋清治さんは、赤くめらめらと燃えている旗竿を見たとき遠くからでも学校が燃えていることが分かったという。
 戦争で「私達の宝もの」だった学校を失ってしまったことは、とても悲しく一生忘れることのできない大きな出来事だった。(横尾)