悪夢の五月二十五日夜半
昭和二十年五月二十五日の夜、それは狛江村に住む人々にとって悪夢の一夜であった。B29の無差別焼夷弾攻撃によって随所に火の手が上り、村の貴重な財産である国民学校の校舎が烏有に帰した他、焼失家屋二十数戸という被害を受けた。翌二十六日十六時三十分の大本営発表は、「南方基地ノ敵B29約二百五十機ハ昨五月二十五日二十二時三十分頃ヨリ約二時間半二亘リ主トシテ帝都市街地二対シ焼夷弾ニヨル無差別爆撃ヲ実施セリ。右ニヨリ宮城内表宮殿其ノ他並二大宮御所炎上セリ。都内各所二相当ノ被害ヲ生ジタルモ火災ハ払暁迄二概ネ鎮火セリ。我制空部隊ノ遊撃戦果中判明セルモノ撃墜四十七機ノ外相当機数二損害ヲ与ヘタリ。」と、いうものだった。十九年の晩秋から東京にB29が空襲してくるようになり、三月十日未明の大空襲では大きな損害を受けた。中島飛行機や調布飛行場も何度も空襲の目標にされた。B29は南方基地を発進して、駿河湾沖から富士山をめがけて編隊を組んでやってくる。そこで東京方面に向きを変えて襲ってくるのだ。だから狛江はそのコースの範囲内に入っていた。高度一万メートル以上という超高度の編隊は、銀翼を連ねて美しく見えていた。しかし、その空襲の下にさらされた都民の悲惨さは地獄絵そのものであったのだ。三月十日以降区内で戦災を受けて縁故を頼って狛江に来る人が増えていた。疎開の荷物を預かる家、縁故疎開で親元を離れでやってきた親戚の子どもも預かった。「狛江なら大丈夫だ。」だれもが何となくそう思っていた。
二十五日の夜。晴天。南の風がやや強く空には月が冴えていた。空襲警報が発令されたのは夜の十時ころだっただろうか。B29の飛来はそれから間もなくのように記憶する。いつものような高度を保って平然と編隊が通過して行く。筆者の家の防空壕は小さくて狭かった。それまで壕にもぐったことは全くない。二階の西の窓からその編隊を眺めていた。突然、異様な落下音。それはみんながいろいろな言葉で表現するが、空を裂いて落ちてくる焼夷弾のすさまじい音だった。我が家の近くではなかった。多摩川の方角だ、猪方らしい。パッと火の手が上がった。続いてまた落下音、今度は西の方伊豆美神社の方角が赤く燃え上がった。「いよいよやられるか。」そう思って階下へ降りようとしたその時、物すごい落下音を真上に感じた。学校が炎上したのはその時だった。筆者は急いで身支度をし、狛江駅前の我が家を出て、全速力で職場の農業会(現在のマインズ農協狛江支店)へと向かった。大和屋商店の横の細い道を駆け抜けて行くその左手に、学校が燃えるバリバリという音が聞こえる。農業会は無事だったが、駄倉の店が紅蓮の炎を上げている。裏手の岩戸原の方角もかなり燃え広がっていた。作業場の屋根で裏の田んぼにばらまかれた焼夷弾の火の粉を払い落としていた石黒勘次郎さんは、家族を連れて猪方の実家の方ヘリヤカーを引いて避難して行った。B29の機影が見えなくなり爆音も聞こえない。どうやら収まるかと思って事務所の前の都道に出た。学校の燃えるのが気になっていた。その時、また編隊がやって来た。学校の上から銀行町の方向へ行く、その編隊が真上に来たとき、最後尾の一機が焼夷弾を落とした。前にも倍する落下音だった。慌てて事務所の東隣の麦畑に飛び込んでうつ伏せた。バタバタバタッと辺りに焼夷弾が落下して火の海になった。農業会も炎上した。火を食い止めようとして焦ったが空しかった。農業会は事務所と作業所、倉庫が全焼した。石造りの農業倉庫が残ったが、屋根を貫いた焼夷弾で中の穀物がくすぷっていた。やがて駆けつけた警防団第六分団が、ホースを突っ込んで消し止めた。焼失した二つの金庫の中は、重要書類までは火が届かず無事だった。建物がほとんど燃え尽きたころ、東の空が明けてきた。農業会の周辺も、都道沿いに小田急線の踏切までの間の十数軒が全焼した。
この日の空襲で、村では猪方で並木仙吉さん、小川嘉七さん他。上和泉(中和泉四丁目)で本橋光雄さん。国民学校付近で、学校の全校舎、谷田部勝義さん、新川安蔵さん、谷田部祐次郎さん、三角為吉さん、岸本福子さん、大久保喜久さん、武井勇美さん、鎌倉喜代太郎さん。 農業会周辺で、農業会事務所・作業場・木造倉庫、白井良輔さん、本橋武雄さん、植草勝蔵さん、安田寅一さん、大久保広吉さん、石黒勘次郎さん他数戸。岩戸原(岩戸北三丁目)で、東京繊維女子寮・倉庫、河野雅治さん、石井大吉郎さん、三角伊三郎さんの家などが全焼した。すべてが焼夷弾の直撃を受けて消火の術もなく、家財一切を失ってしまったのが実態である。
焼夷弾を落とされた範囲は、全焼した家の周辺はもちろん、西から千町耕地(西和泉)の玉翠園(中和泉四丁目)西側から現在の西和泉グランド付近、西河原周辺(元和泉二丁目)、現在の緑野小学校付近、田中橋交差点付近、松原交差点付近、猪方水神下(猪方三丁目)、多摩川宿河原堰から現在の南部地域センターを経て駒井日枝神社付近までと岩戸五軒家付近(岩戸北三、四丁目)が、聞き取りの中で焼夷弾(含不発弾)攻撃にさらされていた。雨のように降ってくる焼夷弾は、水田地帯にも落ちて地中深く潜ったりしたので、その範囲はさらに広がるだろう。家周辺に落ちたのはほとんど消し止めた。それは日ごろの訓練のたまものに違いない。防火用水や火叩き棒はそれ程効果はなく、隣組の組織も充分に機能したとは言えないが、みんなが必死で焼夷弾に立ち向かいひるまずに延焼防止に闘った、その奮闘が功を奏したのだった。警防団の装備は、各分団ごとに一台の手押しポンプだけだった。全部で七台、その内自動車は一台、他は手車に乗っていた。若い者は少なく、年配者だけの消火活動には限度があり、分団の地域内活動が精一杯だった。村民全部が大切に思っていたあの学校にも、炎上中駆け付けて放水したポンプは何台もなく、やっと残火を消す程度に止まった。
村中にいっぱい焼夷弾の油脂と硝煙の臭いが立ち込め、焼け跡にくすぶる煙の向こうに、五月二十六日の朝の太陽は霞んでいた。(田代)