太平洋戦争が終って五十年になる。今戦災に遭った当時のことを思い出してと言われても、私達姉妹は子ども心にただ恐ろしさだけで、本当に大変な思いをしたのは両親であったと思う。
 私達の家は、狛江小学校の正門前の小田急線踏切寄りにあった。
 五月二十五日夜、この時の空襲警報のサイレンはいつもと違う感じがしたが、またかと荷物をまとめて、いつも入れてもらっている花熊さん(現在の谷田部木材店)のむろに逃げた。
 その時、隣組組長さんの、「学校が燃えているぞ!」という大声が聞こえたので、むろから出てみると学校が火の海で二階が燃え落ちるのを皆で見て、足がすくんた。父と姉兄が家に残り、とにかく水のある方にと、多摩川に向かって家族皆で手をつなぎ、「離れてはだめよ。」と母に言われながら逃げた。この時、母はどんな気持ちで私達を連れて逃けたのだろうか…。
 空襲警報が解除になったのか、周りが静かになった。気がついてみると、竹やぶの中にいた。姉と兄が大声で私達の名前を呼びながら探しに来てくれた。それで家が焼かれたことを知った。
 私達が逃げた後、真っ白な物体が「サッサッサッ…」という音とともに降ってきた。あっつという間に火の海となり、家財は吹き飛ばされ家は全焼した。焼夷弾は赤く燃えて落ちてくると思っていたが、真っ白に見えた。家の敷地内には四十九本の油脂焼夷弾が落ち、その中の一本が姉の足下に落ちたが、赤い布のついた不発弾だったのて命は助かった。
 空襲警報が解除になったので、裏の川の水で残り火を消そうとしたが、どうにもならなかった。戦争によってこんな思いをするなんて…、と姉は情けなく泣くこともできなかった。この思いは、今でも忘れることはできない。家と家財をなくした私達の生活は大変であった。家族十人に父の弟の子ども五人(弟夫妻は死亡)を引き取り、一時は十五人の大家族になり、学校に通う子どもは八人で、お弁当を八つ作った母は肝っ玉母さんだったと思う。
 大家族の生活は食糧確保から始まった。母と姉は遠くまで食糧を買い出しに行くのが仕事であった。食べ物は物々交換で配給で受けたものやもらった品物は全部食糧に替えた。でも両親と姉が手をかけて食べ物を作ってくれたので、まずかったり淋しい思いをしたことはなかった。
 学校は泉龍寺の境内と玉川医療器工場内で、午前と午後の二部授業で机等はなく、いすだけで勉強した。お弁当はサツマ芋とかふすまのパンを持って行った。
 最後に、一番残念なのは買ってもらったばかりの習字用セットを学校に忘れてきて焼いてしまったことと、どうして私達の家が戦争で焼かれてしまったのかということ。
 今でも、思うと悔しい。
                寄稿 谷田部任(ひで)・谷田部静子・青木(旧姓谷田部)伊智子