関東大震災

 大正12年9月1日、午前11時58分、相模湾を震源にマグニチュード7.9の激しい地震が起こった。
 多摩川ではゴーという地鳴りと同時に水が揺れ、泥水になって魚が飛び上がったという。
 堤防も10町ほど亀裂が入り、道路や水田、畑には地割れや段差ができ、橋は2カ所で落下、まるでふるいにかけられたようだったという。
 郡役所には「倒れた家も火を出した家もなく、土蔵の崩れ落ちた程度の被害だった」と報告しているが、住居の小破損237棟、土蔵の破損91棟、その他の建物の小破損211棟だった。
 井戸水は濁り、蚕棚が傾いて飼育中の箙が滑り落ち、蚕が一面に放り出された家もあった。秋蚕が繭を結ぶ大事な時期だったので余震の合間をぬって棚を戻し、蚕を拾って箙に戻した。
 余震は終日揺れ8日まで続いた。特に3日には「今夜大きな地震が来る」といううわさが広がり、多くの人が竹やぶにむしろを敷き、蚊帳をつって寝ていたから闇夜の中に点々と石油ランプや手燭の光が輝いていた。
 9月1日は朝から激しい雨だった。昼前には上がり青空が見えたが、やがて東の空に入道雲が湧きあがり、横浜の方にも灰色の雲が浮かび上がった。夜になると雲は真っ赤に染まり火災の発生が分かった。その火は3日まで48時間燃え続けていた。
 村内での犠牲者はいなかったが、若い女性が奉公先の箱根町で1人、本所で2人亡くなり1人は遺体さえ出てこなかった。
 2日になると、旧東京市内や横浜に住んでいて災難にあった村の出身者が、父母・兄弟を頼って避難してきた。中には小僧や同居人まで連れてきた者がいて多い時には272人もいた。
 避難者は一軒当たり4人以下が多かったが、中には11人という家もあってひと頃はご飯炊きも大変だったという。年齢も5歳以下が37人、60歳以上が11人いた。
 地震発生後、暴徒が来るという流言に、在郷軍人会や消防組、青年団では10日間夜警を行ったり、被害者の救済活動を行った。そして9日には、村中から集めた米、麦、野菜、漬物、味噌、醤油など25品を袋や樽などに入れたもの335個に、現金305円20銭を添え、馬車や荷車で虎ノ門の金刀比羅宮に置かれた罹災者救護所に届けた。その後も数回野菜を届けている。
 狛江村寺院連合でも被災者救助のために3日間托鉢を行い、また、墓石の倒壊しているところは彼岸までに修理するようにと檀家にお願いしている。
 当時村人の足だった京王線も車両、電柱、線路の被害が多く一時不通になったが、4日には葵橋と笹塚間が開通、6日にはほぼ全線が開通して避難者には無料乗車券を配布していた。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)