昭和45年 市制施行のとき

 狛江町は昭和40年の国勢調査で人口5万人に達しなかったので、市制を施行できなかったが、昭和45年3月の地方自治法の一部改正(特例法)で人口3万人以上になれば市制施行ができるようになった。
 そこで町議会では3月18日に市制推進特別委員会をつくり、町議会議員全員をメンバーに10月1日実施を目指して準備を始めた。また、役場内でも各課長を委員とする準備委員会と企画室に市制担当を置いて準備を進めた。
 町民に対しては4月15日に臨時の広報を発行して市制施行の方針と、それに対するアンケートを募集した。アンケートの締め切りは4月20日とわずか6日間であったが回答総数832人のうち764人(91.8%)が賛成、新市名を狛江市とするが611人(73.5%)、その他「こま」を平仮名にしようという意見もあった。また、要望については、多い順に、町道を全面舗装・側溝にする、下水道の完備、都立高等学校の誘致と教育施設の充実、集配郵便局の設置、住居表示の整備、交通安全対策、警察署の誘致と防犯対策、保健所の誘致、消防署・幼稚園など公共施設の充実などがあった。狛江町は副都心新宿に近く便利なため、転入者が多く、これまで教育費に多く予算を取られていたことの表れであろうか。
 また、5月には町民対象の公聴会を5カ所で開いている。「市制施行を記念して市章を作成したらどうか」という意見もその中から出たもので、7月1日の広報で市民から募集したところ、締め切りが7月31日とわずか1カ月しかなかったのに136点も集まった。審査の結果、幡野徳治さんの作品が入選して、10月1日に市役所で表彰式が行われた。
 その後8月12日に町議会で10月1日より市制施行を議決。8月19日に申請書を東京都に提出。9月の東京都議会で議決され10月1日施行が決定した。
 なお、市制施行の条件として、人口3万人以上以外にも(1)市街地が7割以上、(2)商工業、その他都市的業態(農林漁業に相対するもの)に属する人口が全人口の7割以上、(3)都条例で定める都市の施設、その他都市としての要件を備えている官公署が5以上、(4)公私立の文化的施設が2以上、(5)市が企業を1以上経営している、などという問題があったが、当時の狛江町ではやっとの思いだっただろう。
 10月1日、いよいよ市制施行の日。午前9時、市議会議場で冨永和作市長による「市制宣言」が行われ、大空には喜びの花火が打ち上げられた。そして「狛江市役所」と書かれた表示板の除幕と開庁式、記念樹の植樹が行われた。
 折から狛江第二小学校と狛江第三小学校の児童が編成した鼓笛隊が狛江通りを北と南からパレードし、正門から市役所に入った。
 10月10日午前10時からは狛江第一中学校の体育館で記念式典が行われた。各界の代表者を集めてお祝いの言葉が述べられている。
 市内にある諸所の商店街でも記念売出しをしている。
 11月3日には市の後援を得て狛江市商工会が「市制記念自動車パレード」を行った。きれいに飾りつけた自動車の列、先頭を行くオープンカーには市長と商工会長が乗り、風船を配りながら市内を一巡した。
 10月18日には市民グランドで市民体育祭が行われ、この年から名称も「体育祭」から「市民体育大会」となり、また、軟式野球大会、軟式庭球大会、卓球大会、バドミントン大会、バレーボール大会、少年サッカー大会と、各種競技大会を9月13日から10月14日にかけて日曜日ごとに行っている。
 11月22日には狛江第一中学校で市民文化祭が行われ、市内各種団体の活動展、市民作品展(手芸、人形、生花、茶道、書道、写真、絵画などで市民個人でも参加できた)、農産物品評会、献血、体育館では児童の人形劇、民謡、演奏、合唱、鼓笛などが行われている。
 市制記念で植えられた記念樹は、今もすくすくと育っている。

 井上 孝(狛江市文化財専門委員)