狛江の歴史
狛江市は、多摩川の左岸、武蔵野台地の南の縁に位置しています。 |
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狛江の地形と遺跡 | ||
縄文・弥生時代 弁財天池周辺の弁財天池遺跡からは、縄文時代以降の住居跡が多く発見され、人々の生活の痕跡が色濃く見られます。例えば、縄文時代の落とし穴の遺構(写真1)が発見されていますが、これは、水を求めに来た動物を捕まえるためのものと考えられます。 |
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(写真1) 縄文時代の落とし穴 |
(写真2) 縄文時代の敷石住居 |
(写真3) 弥生時代の方形周溝墓 |
※1 敷石住居とは、床面に石を敷き詰めた住居です。縄文時代中期から後期にかけて、関東地方の南西部にて作られました。 |
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古墳時代 古墳時代になると、狛江には多くの古墳が築造されました。古墳が多いことから、「狛江百塚」と呼ばれます。ただし、現在、市内で確認できる古墳は13基になってしまいました。 |
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(写真4) 亀塚古墳 |
(写真5) 発掘調査時(昭和26年)の亀塚古墳 |
(写真6) 猪方小川塚古墳 |
奈良・平安・鎌倉時代 古墳時代に続く奈良・平安時代、さらに鎌倉時代の頃の狛江の様子については、あまりよくわかっていません。発掘調査等によって、断片的に知ることができるのみです。こうした中で、古屋敷・相之原(ふるやしき・あいのはら)遺跡(岩戸南三丁目)で発見された、古代官衙(かんが)の遺跡にみられる掘立柱建物の遺構(写真7)は、この地域が重要な拠点集落だったのではないかと推測させます。 |
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(写真7) 掘立柱建物の遺構 |
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室町・戦国時代 室町時代には、吉良氏が世田谷に領地を持ち、狛江もその影響下にあったと考えられます。さらに、戦国時代になり北条氏が小田原を拠点として関東に勢力を拡大すると、北条氏の影響も受けます。 |
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江戸時代 現在の市域は、江戸時代の和泉村、猪方村、岩戸村、覚東村、小足立村、駒井村の六か村にほぼ該当します。狛江は江戸時代を通して畑地の多い農村であり、慶長14年(1609)に開削された灌漑用水路である六郷用水、昔の野川、弁財天池から流れる清水川等が重要な水源でした。江戸時代後期の戸数は290戸、人口は約1,500人くらいだったと考えられます。 |
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(参考) | ||
明治・大正・昭和時代 明治政府は、明治2年(1869)の版籍奉還、明治4年の廃藩置県によって中央集権国家へ向けて動き出し、地方行政の改革も進めていきました。 三多摩地域は、自由民権運動の盛んな地域でした。狛江にも、交潤講益社(写真8)という結社や帝国議会開設後に明治学会というグループができ、自由民権運動やその後の政党政治活動に身を投じる壮士もいました。 |
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(写真8) 交潤講益社社則 |
(写真9) 日露戦役紀念碑 |
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明治時代以降も、狛江村は畑地の多い農村であり、米や麦の他に果樹蔬菜の栽培、養蚕、また多摩川での漁業が副業でした。そんな狛江村にとって、昭和2年(1927)の小田急線開通は大きな出来事でした。明治・大正生まれの古老からの聞き取り調査で、小田急線に話が及ぶと、多くの人が開通の年を覚えていたくらいです。 |
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鉄橋を渡る小田急線車両 (木下氏撮影写真) |
昭和12年の狛江駅 (木下氏撮影写真) |
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日中戦争終結の見通しがつかず、太平洋戦争が開戦すると、戦局は悪化していき、狛江村からも多くの若者が出征していきました。また、銃後の負担もおおきくなり、狛江村に移転してきた軍事工場では、学生や女性たちが働き手となりました。そして、昭和20年(1945)5月25日には、狛江村も空襲を受け、村の唯一の学校であった狛江国民学校(狛江尋常高等小学校)(写真10)が焼失しました。 |
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(写真10) 狛江尋常高等小学校 |
(写真11) 狛江市戦没者慰霊塔 |