多摩川を歩く 二ヶ領堰から駒井町へ

 二ヶ領用水堰の下に広く岩石が露出している所がある。今から130万年前、東京の海は深く入り込んでいて、この辺りが海だった名残である。上総(かずさ)層群という基盤岩(水成岩から成る硬い地層)で、フスマガイなどの海生貝、魚、イルカの化石も発掘されている。
 昭和の初め、二ヶ領用水堰が蛇籠(じゃかご)だった頃は自動車教習所の辺りには玉石や砂利が多く、水量もあったから子どもたちの格好の遊び場で、泳いだり、飛び込んだり、白い石を投げ込んで潜って取りっこをしたという。
 自動車教習所の二輪車コースの辺りには太平洋戦争中、牛込区(現新宿区の一部)の余丁町国民学校(現余丁町小学校)の農園があった。教育奉仕会のあっせんで119坪とわずかではあったが、食料難のおり児童に農耕作業を体験させ、食糧増産、勤労精神の培養、心身の鍛錬に努めていたという。また、太平洋戦争中は多くの人が河原を耕して野菜を作り、乏しい食生活を補っていた。
 堤防の北側には砂利穴が多かった。昭和28年発行の狛江町全図には猪方・駒井町だけでも14の砂利穴が記載されていて、自動車教習所の先にある供養塚公園には、昭和の初め東京横浜電鉄(現東急電鉄)が線路に敷く砂利を掘った跡が池沼になっていたのを、昭和30年代に埋めて住宅地にしたという由来を記した記念碑がある。
 文化・文政の頃(19世紀前半)に書かれた江戸名所図会の挿絵に、駒井と対岸の宿河原を結ぶ仮橋が描かれているから、その頃は当時の駒井村の辺りに渡し場があったのであろう。駒井大通りはかつての大山道であった。渡し場はやがて上流に移り、明治の終わりには多摩水道橋と小田急線の鉄橋の間に移動している。
 猪駒通りと堤防が合わされる辺りに宿河原のお稲荷さんがある。そこを左に曲がる道を行くと、ぐるっと回ってまた多摩川土手に出る。この道はかつての堤防の跡で、その右側はヨシ原でヨシキリが鳴いていたという。
 宿河原のお稲荷さんの先、駒井町3丁目の堤防の下は、今は駒井町だが、昭和57年までは狛江市宿河原といっていた。かつての多摩川は荒れ川でたびたび洪水を起こして流路を変えたため、対岸の神奈川県橘樹郡稲田村宿河原の飛び地になっていたのを、明治45年に東京府北多摩郡狛江村の一部にし、昭和57年の町名変更で駒井町にした。
 西河原公民館の対岸にも和泉という地名があって、和泉というバス停もある。また、地図を見ると上流から「押立」「布田」「宇奈根」「二子」「野毛」「等々力」「丸子」など同じ地名が両岸にあるのも洪水によって分断された跡であろう。

 井上 孝
 (狛江市文化財専門委員)