新元号が「令和」に決定し、その典拠となった「万葉集」が脚光を浴びていますが、狛江にも「万葉集」の東歌(あずまうた)を刻んだ歌碑が伝わっています。そして、この歌碑を建てるのに援助してくれたのが、新たな1万円札の顔に決まった渋沢栄一です。
 狛江の万葉歌碑は、「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」という東歌を刻んだもので、江戸時代後期(文化2年・1805年)に、この歌が詠まれた場所が狛江の多摩川沿いだとして建てられました。この時、歌を書いたのは、寛政の改革で名高い松平定信でした。
 しかし、この歌碑は、数年後(文政12年・1829年)の洪水で流されてしまい、以後も狛江の人々はその流失を惜しみ、歌碑の捜索を続けていました。
 流失から90年近く経った大正時代になると、狛江の有志らは歌碑の再建のため「玉川史蹟猶興会(しせきゆうこうかい)」を設立し、渋沢栄一に協力を仰ぎました。
 渋沢は、松平定信を尊敬していたことなどから、会の顧問を引き受け、狛江の人々の思いをくみ、講演会の演壇に立ったり、多額の寄付をしました。寄付金は、財界の大物からも寄せられましたが、これは渋沢のつてによるものでした。
 そして、大正13年(1924年)4月13日、渋沢らを招き、万葉歌碑が建つ傍らの庭園「玉翠園」で除幕式が催されました。
 再建された万葉歌碑は、高さ約2.7mで、正面には拓本として伝わっていた松平定信の書が模刻され、背面には渋沢による「碑陰記」などが刻まれています。
 万葉歌碑は、まちの様子が大きく変わっていく中でも、地域の人々の手によって大切に伝えられ、今に至ります。
〔問い合わせ〕社会教育課文化財担当

〔所在地〕中和泉四丁目14番付近
〔交通〕

  • 小田急線狛江駅または和泉多摩川駅から徒歩15分
  • 狛江駅北口から「多摩川住宅中央」行きバスで「水神前」バス停から徒歩2分または「こまバス」(北回り)で「和泉小学校西」バス停から徒歩3分