万葉集と狛江 「令和」の年を迎えて

 「多麻河泊爾左良須弖豆久利佐良左良爾奈仁曽許能児能己許太可奈之伎(たまがわにさらすてづくりさらさらになにそこのこのここだかなしき)」これは万葉集巻14にある東歌で、この歌を記した碑が文化2(1805)年に猪方村半縄に建てられたが洪水で流されて、今は中和泉4丁目14番地に再建されている。
 この歌は、布さらしをしている若い女性がかわいいという男性の気持ちを素直に表した庶民の歌で、誰が詠んだか、いつ詠んだかは分からないが、現代に通じる庶民の気持ち。その上、奈良時代の多摩川の様子がまぶたに浮かぶ。これこそ万葉の世界である。また、文字は寛政の改革を行った江戸幕府の老中松平定信の書、陰記は明治時代の実業家であり、多くの文化財の保護に活躍した渋沢栄一の文。
 碑石は小松石という箱根火山から噴出した真鶴産の名石、安山岩であるから95年たった今でも石も字も欠けることなく輝いている。しかし「()」の字の下の傷は関東大震災の時倒壊したためだという。そのため、大正12年の夏頃にはできていたが、除幕式は大正13年4月13日、松平定信の命日に行われた。なお陰記に記されている12月27日は松平定信の誕生日である。今は東京都旧跡に指定され、多くの見学者を迎えている。
 この碑の横に高さ1mくらいの小さな碑がある。この碑の再建を発起した羽場順承の歌で、この碑が末永く多くの人に愛されるように願っている。
「建碑 玉川のその名所(などころ)末遠(すえとお)く伝ふしるしの小松石文(いしぶみ)
「後楽 (ねがわ)くは千年(ちとせ)(のち)(きた)り見む百千万(ももちよろず)の子鶴(ひき)ゐて」「羽場順承記す」
 玉川碑の苑には紅白の梅の木が植えられていて、毎年美しい花を開き、香ばしい香りを漂わせるし、梅雨の頃には青い実がなる。梅の木は、奈良時代に中国から移入されたもので、その頃は、食用、薬用として珍重され、万葉集には118首の歌が詠まれている。玉川碑苑には他にも桜、椿、アセビなど万葉集にかかわる樹木も植えられている。
 狛江駅北口広場が出来た平成8年には駅前広場に乙女像が設置された。布さらしの姿を現したいと計画が持ち上がったが、勉強会を重ねるうちに奈良時代の庶民の服装が分からないなど難しいことがあって現代乙女がさざなみを見ている姿になった。
 平成10年には、見学者が多くなった玉川碑の前の道を「万葉通り」と名付け、平成14年には道路標示板が取り付けられた。
 多摩川の土手を歩くとあちこちにクズ、オギ、ヒルガオなど万葉植物を見ることができるし、青い実のなる梅の木は古くから大切にされ、どこの農家でも庭に植えたものである。
 令和の時代を迎え、ますます万葉集が身近なものになるだろう。
 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)