多摩川を歩こう 水道橋付近

 多摩水道橋は東京の水不足を補うために、川崎市多摩区にある長沢浄水場で浄化した相模川の水を東京に引き入れようと昭和28年に架けられた。そのレリーフが上り線の左角にある。今の橋は2代目だが上流側の橋を下から見ると、直径1.8mの水道管を見ることができる。
 昭和3年発行の地図には、和泉多摩川駅の西側に小田原急行鉄道の引き込み線と堤防の上にはトロッコの線路が敷かれている。多摩川砂利は江戸時代から採掘されていたが、関東大震災以後復興事業も加わり、狛江でも盛んに採掘されるようになった。
 しかし、取り過ぎて堤防や橋桁など河川構築物が危険になったため昭和9年に規制が強化されると流域の田んぼの砂利が盛んに掘られるようになった。今、狛江高等学校がある所にも大きな砂利穴ができて、昭和21年には淡水クラゲが発見され、昭和26年から44年まで天然記念物に指定されていた。
 狛江高等学校周辺には昭和7年に操業開始した日本水道株式会社があった。多摩川の伏流水や六郷用水の水を成城学園前の住宅街や世田谷方面に給水していたが、昭和20年に都営水道になり、昭和44年に廃止され、今も水道局用地として残っている。
 多摩水道橋と小田急線の鉄橋の間にボート屋があった。かつてはボート遊びが盛んで狛江側に6軒、対岸に4軒のボート屋があって休日にはたくさんのボートでにぎわっていたという。
 昭和27年まで、その辺りに渡し場があった。堤防から河原に降りる道が今も残っていて、この道を対岸の人たちが東京に肥やし汲みに、狛江の人たちが荷車を引いて多摩丘陵に落葉掃きに通ったのである。
 小田急線が開通したのは昭和2年である。その頃は茶色い電車が1両か2両で水面に影を映しながら走っていた。昭和32年に運転開始した初代のロマンスカーは静かな流れの上にオルゴールを響かせていた。そして昭和53年3月31日には地下鉄の車両が、その後JRの車両も乗り入れるようになり多彩な電車が川の上を走るようになった。
 鉄橋の下流側には野球場がある。昭和39年の東京オリンピックの後、河川敷を誰もが使えるようにと、河川敷の開放が行われて造られたのである。
 鉄橋のやや下流には二ヶ領用水に取水する堰がある。昭和24年に改築され、あまりの強固さから昭和49年の狛江水害の原因の一つになった所で、そのすぐ左側の堤防が決壊したのである。今は改築され水の多い時には遮蔽板全体を倒し流れを良くするように改められている。
 鉄橋から少し下ると道は左に曲がり、信号を右に曲がると猪駒通りである。これはかつての堤防の跡で、昭和9年ごろ今の場所に移し変えた。

 井上 孝
 (狛江市文化財専門委員)