明治が終わる頃、東京市内では電灯が普及し始めた。石油ランプやガス灯がだんだん姿を消していく。郊外電車が着工されるのもこの頃からである。明治四十五年、京王電気軌道株式会社は、新宿-調布間の軌道建設工事を始め、府中火力発電所が完成する。大正三年には府中町、調布町などの家庭に電力供給を始めた。家に電気がくるとどんな様子になるかと、調布の知り合いの家にわざわざ見にいった人もいた。
 狛江村の一部に電気がついたのは大正十一年三月頃である。普通の家はたいてい十燭の一灯であった。十燭は十三ワツトぐらいに換算できるから、今日の照明と比較すると暗いものであった。料金は定額制で、従量制は、打数の多いところに限られていた。大正十三年から昭和五年の間、電灯料金の集金を狛江青年団が行ったという記録がある。手数料を青年団の基金にしたのである。
 送電は夜だけだから、朝がくればスイッチを切らなくても自然に消えた。定額制でももったいないからといって、不要の電気は消す人が多かった。初めて電気がついた頃、電気を消そうと、お年寄りが団扇(うちわ)であおいだという笑い話が残っている。
 大正十年、狛江に初めて調布局の電話が通じた。玉翠園と府会議員の石井寅三さん宅の二軒であった。調布局の電話架設期成組合に入り、電話架設費三百五十円という大金と特別寄附金を納付、架設にこぎつけたのである。
 昭和四年、砧郵便局(世田谷区)で磁力式電話交換が始まり、狛江村役場は特設電話でつながれた。六年四月に砧局が新設され、十月一日には役場に普通電話が通じた。一般の電話架設はこの頃以降であろう。九年には加入者二十五、十年には二十八となる。ほとんどが和泉地区で、加入者の多くは商工業者であった。この段階で狛江小学校や片岡医院にはまだ電話がない。